NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/30


大磯宿 Ooisojuku 

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 大磯宿(おおいそじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県中郡大磯町にあった。
江戸時代に徳川家康が宿場制度を成立、日本橋から京都までの幹線道路として東海道を整備した際に53箇所敷設した宿場のうち、大磯宿は日本橋から8番目の宿場として作られた。
 日本橋からは66kmの距離にあり、もし徒歩なら16時間ほどかかることになる。大磯宿は、両隣の平塚宿と小田原宿の間が東海道でも有数の近距離になるため、宿泊者が少なかったようである。
 現在、宿場町としての名残をとどめるものは数少ないが、山王町の旧東海道と国道1号の松並木は往時を偲ばせる。旧東海道の「化粧坂(けわいざか)」付近の風景は、安藤広重が浮世絵「東海道五十三次・大磯虎ヶ雨」に残している。
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2008/10/24


三島宿 Mishimashuku 

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 三島宿(みしましゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の静岡県三島市にあった。
 三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていた。慶長六(1601)年に徳川家康が宿駅制度を作り、東海道に53箇所の宿場を設けた際には三島宿は東海道の起点、江戸日本橋から11番目の宿駅に指定される。
 その後、三代将軍家光が参勤交代制度を制定し、各大名の往来が多くなると、三島宿は江戸防衛の役割を担うことになった。また、三島宿は伊豆半島の文化、産物の流通の中心という役割も果たしていた。諸大名や幕府役人などが宿泊した本陣は2軒、大名家の家臣が宿泊した脇本陣は3軒あったほか、一般庶民の利用した旅籠屋は64軒もあったという。三島宿の賑わいは、安藤広重の描く浮世絵「東海道五十三次」にも残されている。
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2008/9/12


芝東照宮 Shiba-toushouguu 

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 東京都港区。そんな都心に程近い場所に広がる芝公園の一角で、静かに佇む古社が芝東照宮(しばとうしょうぐう)である。
 徳川家康を祀るお社であり、元和二(1616)年に創建された。当初はすぐ近くにある増上寺の境内に勧請され、家康公の法名に因んで安国殿と称されていた。現在の増上寺境内にある安国殿とはまた別である。その後の寛永一八(1641)年には、三大将軍家光により三度目の造営がなされ、今に至っている。
 御神体として等身大の寿像が祀られているが、これは慶長六(1601)年の正月に、六十歳となった家康が自ら命じて彫刻させたものだといわれている。
 本殿の右側には高さ26m、樹齢およそ三百年といわれる立派なイチョウの大木が聳えている。これは家光の御手植えと伝えられており、都の天然記念物に指定され「東京都の木」として今も親しまれている。
 境内にはその他にも桜や梅、楓などが四季折々に色付き、徳川三百年の権勢を今に伝えている。
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2008/8/15


安祥城址 Anshou-jo-shi 

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 安祥城(あんしょうじょう)は、永亨一二(1440)年、畠山一族の和田親平が築城したといわれている。
 この地域は三方向が沼という自然の要塞で守られており、城のまわりに二重の濠がめぐり、高い土塁と見張り櫓から低地を監視できる、外部からの攻めに強い城だった。
 しかし徳川家康の祖先である松平氏が、城の近くの集落で賑やかな盆踊りを開催して武士の注意を引き付け、その間に攻め取るという寄策を投じ落城する。
 のちに松平氏は本拠を移し、一族の安祥長家を安祥城代とするが、天文九(1540)年、尾張の織田信秀が落城させ、支配下に置く。
 永禄五(1562)年に清洲同盟(きよすどうめい)が成立すると、安祥城は廃城となった。
 現在は大乗寺に本丸跡、八幡社に二の丸跡、周囲に堀や土塁が残っており、本の丸を中心に円心状に曲輪を配置した城跡を残している。また、七つ井と呼ばれる井戸が点在し、安祥城主が茶の湯に使ったとされる筒井が残っている。
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2008/7/22


小判 Koban 

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 小判(こばん)とは、江戸時代に流通した小型の金貨である。
 慶長六(1601)年、前年の関ケ原の戦に大勝した徳川家康は、幕府開設に先立ち金座・銀座を設けて貨幣を鋳造した。
 全国に通用させることを目的として、金貨としては小判と一分金が鋳造され、単位には甲州金で用いられていた両・分・朱が採用された。これが慶長小判である。
 慶長小判は質量ともに最も良く、重さ18g、純度86%の良貨で、山吹色をした代表的な小判としてよく知られている。
 しかし以後は、正徳享保期を除き、時代ごとの経済政策により金含有率・重量ともに改悪されることが多く、時代毎に発行された種類によって大きく価値が違ったものになった。
 明治以降は新貨条例が施行され、小判は新貨幣と交換され、流通しなくなっていった。
 小判は、江戸時代に作られ、用いられた日本の貨幣である。
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2008/6/30


二俣城 Futamata-jou 

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 二俣城(ふたまたじょう)は、静岡県天竜市街地の北側、標高約一〇〇メートルのところにあり、天龍川と二俣川に囲まれ切り立ったところに立っている。徳川軍と武田軍による攻防の舞台となった城として知られている。
 文亀三(1503)年、二俣昌長(ふたまたまさなが)が築城したとされる。
 天正七(1579)年九月一五日、徳川家康の嫡男である松平三郎信康が城中で自刃したという悲話が残されている。この際、介錯に使われた刀が千子村正(せんごむらまさ)であった。村正とは、室町時代の刀工で、伊勢国桑名の住人。「妖刀村正」と呼ばれ、数々の伝説を残した名匠で、信康の自刃のほか、徳川家康の祖父・清康が殺害され、さらに関が原の戦いで家康自身も手に傷を負ったのが全て村正という。
 現在残っているものは、高さ約四、五メートルの天守台と、野面積み(のずらづみ)の石垣、本丸、二の丸、南・北曲輪、土塁などが残されている。
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2008/6/26


甲府城(舞鶴城) Koufu-jou(maitsuru-jou) 

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 甲府城(こうふじょう)は、上から眺めると鶴が羽ばたいている姿に似ているところから別名「舞鶴城(まいつるじょう)」と呼ばれていた。
 天正一〇(1582)年、戦国大名である武田氏の滅亡後、織田信長の領国となったが、本能寺の変のあと、徳川家康が支配した。
 しかし、豊臣秀吉の天下統一後、秀吉の命により甥の羽柴秀勝や部下であった加藤光泰により築城され、浅野長政・幸長父子により城は完成した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦い以後、再び徳川家のものとなり、江戸中期には柳沢吉保が城主なった。
 甲府城の石垣は、約四〇〇年前ほど前、自然石を使い石を乱積みにした野面積み(のづらつみ)から始まったといわれている。
 現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されている。
 舞鶴城公園は、桜の名所としても知られ、一五〇本以上の桜が植えられている。城址の雰囲気のなかで、咲き誇る桜を楽しむことができる。
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吉田城(今橋城) Yoshida-jou(Imabashi-jou) 

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 吉田城(よしだじょう)は、別名・今橋城(いまばしじょう)とも呼ばれ、永正二(1505)年、今川方であった牧野古白(まきのこはく)によって築城された。
 近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文一五(1546)年になって今川義元が城代を置いた。
 戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で、名前を今橋から吉田と改めた。
 永禄八(1565)年、徳川家康は今川氏の最大拠点であった吉田城を攻略し、酒井忠次を置いた。
 そして天正一八(1590)年、徳川家康の関東移封により、池田輝政が一五万二千石で入城、城下町の整備などをおこなったが、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの後、播州姫路に所替えとなった。
 現在、吉田城跡のある豊橋公園には、本丸跡に復元された三層の隅櫓があるほか、石垣や空堀、土塁などが残されている。
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