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2007/9/10


高千穂河原 Takachiho-gawara Takachiho-gawara

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 高千穂河原は、鹿児島県霧島市の霧島連峰にある、かつて霧島神宮が建っていた場所である。
 初め霧島神宮は高千穂峰と御鉢の間にあったが、1400年前の噴火により消失し、この地に再建された。しかし、それも1000年前の噴火のため燃えてしまい、その後、他の場所へ移された。現在は、宮跡が祀られている。
 高千穂峰の西麓にあたる登山口でもあり、登山道を兼ねた遊歩道周辺にはアカマツ林やミヤマキリシマが群生する。
 高千穂河原から見る高千穂の峰は急角度で空を突き、神秘的な山肌も鮮明に見えて、まさに霊峰の雰囲気である。
 高千穂峰の頂は天孫降臨の地であり、高千穂河原は山頂に降りた神々の古宮址とも呼ばれ、毎年11月10日には日没とともに、天孫降臨記念祭が行われている。
 高千穂河原は、古い歴史を持つ伝説の土地である。
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2007/9/4


鹿児島 弥五郎どん祭り Kagoshima Yagorou-don-matsuris Yagoro-don Festival in Kagoshima

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 鹿児島の弥五郎どん祭り(やごろうどんまつり)は、鹿児島県曽於市大隅町にある岩川八幡神社にて毎年11月3日に行われている祭りである。鹿児島三大祭りの一つとされている。
 「弥五郎どんまつり」は岩川八幡神社に伝わる五穀豊穣を祈ったご神幸行列の祭りで、六代にわたる天皇に仕えたとされる武内宿禰(たけのうちすくね、84~367)、隼人族の首領などがそのモデルではないかと言われている。
 身の丈4.85m、ギョロリとした眼に太い眉、大小2本の刀を携えた勇ましい弥五郎どんが街中を練り歩く「浜下り」が、祭りの最大の見所とされている。
 弥五郎どんゆかりのものにふれれば、一年を無病息災で過ごせると言われている。
 鹿児島の弥五郎どん祭りは、南九州を代表する勇壮で迫力ある秋祭りである。
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2007/8/30


茨城 西念寺 Ibaraki Sainen-ji Ibaraki Sainenji Temple

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 浄土真宗別格本山 稲田山西念寺。
 鎌倉時代の初め、越後への流罪が解かれた親鸞は、招かれて茨城県笠間市稲田のこの地に草庵を結び、布教をしていた。
 建保二(1214)年から寛喜四(1232)年のことである。
 この間、根本教典の「教行信証」を記し、その後京都に戻った。
 境内にはお葉付き銀杏をつけるイチョウの珍種がある。2000年11月15日に県の文化財に指定された。
 銀杏は化石の植物といわれ、その起源は百万年以前に遡る。この木は老木ではないが、それが親鸞聖人が蒔いたものと思って見れば、参拝の念佛者にとって特になつかしいものである。
 参拝者は一粒の実を参拝の記念に蒔いて、深き佛縁を喜んでいる。
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2007/8/29


新田原古墳群 Nyuutabaru-kofun-gun 

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 宮崎平野には多数の古墳群が存在する。これらの古墳群の多くは、河川地域ごとに広がる小高い丘陵上や、宮崎県内では原(はる)と呼ばれる台地上につくられている。
 新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)もそのひとつで、五~六世紀につくられた古墳群である。一ツ瀬川を挟んで対岸には西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)があり、この西都原と向かいあう広大な台地の縁辺から中部にかけて、前方後円墳や円墳をはじめ全部で大小二〇七基もの古墳が群集している。家の形をした石棺をもつ石舟塚や、今も形の整っている弥五郎塚などが残っている。
 また、古代人の霊を慰める古墳祭が行われ、この日は「土」の字にちなんで「十一月十一日十一時十一分」ちょうどに祭典が始まる。
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宗麟原供養塔 sourinbaru-kuyou-tou 

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 天正六(1578)年一一月、島津義久率いる島津軍と大友宗麟率いる大友軍の壮絶な九州制覇の戦いとなった「耳川の戦い」。戦場となった高城川の北にある宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)は、この時の戦死者のために、天正一三(1585)年に建てられた石造六地蔵塔である。
 川南町の「かんかん原」と呼ばれる台地にあり、高さ一.七メートル。国の指定史跡となっている。
 日向進出を狙った大友軍は島津氏の拠点である高城を囲んだが、高城の城主、山田有信(やまだありのぶ)はわずかな兵で籠城し激しく抵抗していた。これを知った島津義久率いる主力軍が大友軍を総攻撃し、北へ敗走する大友軍を耳川(日向市)まで追撃。この間七里の道が血に染まったという。これにより島津氏は九州随一の勢力となった。
 その後両軍の戦死者は、高城と耳川の間にあるカンカン原の塚に葬られることとなり、島津義久は山田有信に、敵味方の区別なく手厚く葬るよう命じたという。別名、敵味方供養塔ともいわれる。
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2007/8/22


家串 荒獅子 Iekushi Ara-shishi 

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 勇壮な大太鼓の音が宇和海に響き渡る。獅子は蝶を捕らえようとするが、逆に蝶に翻弄され荒れ狂う。その様子を表現したとされる家串の荒獅子(いえくしのあらしし)は、愛媛県南端に位置する愛南町に古くから伝わる郷土芸能である。天正年間(1573~1595)に大漁・豊作を願う祭礼として始まったと伝えられる。
 荒獅子は、毎年11月3日に行われる家串地区最大の行事、若宮神社の秋祭りに欠かせない出し物として今に伝えられている。蝶に扮するのは3人の少年で、化粧を施し華やかな衣装を身にまとい、ばちを器用に操りながら大太鼓を叩く。獅子には成年男子が扮し、勇壮で豪快な中にも優雅さを併せ持つ舞いを披露する。
 歴史的・芸術的価値が高く、村民(旧内海村)に欠くことのできない郷土芸能であることから、昭和三九(1964)年に内海村無形民俗文化財に指定された。
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2007/8/20


秋元神社 Akimoto-jinja 

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 高千穂の南方、諸塚山の中腹に鎮座する秋元神社(あきもとじんじゃ)。参道の長い階段を上り切り、ふたつ目の鳥居をくぐると、眼前に境内が現われる。境内はさして広くはないが、静寂に包まれ、御神木の銀杏に守られた小さな拝殿からは神秘が漂う。流れ落ちる清らかな山の水は、御神水として祀られている。
 神武天皇の孫にあたる建磐竜命(たていわたつのみこと)が創建し、天和三(1683)年に現在地に建立したと伝えられている。珍しいのは建物の向きで、一般的には南方から西方に向けるべきところ、秋元神社は北東を向いており、これはきわめて珍しい。「パワースポット」などと呼ぶ人が多いのは、そんな理由からだろうか。
 秋元神社では毎年一一月下旬ごろ、今年一年の無事に感謝し来年の五穀豊穣を願い、山神楽が奉納される。ひと晩かけて行うこの神楽奉納には、数千円の初穂料を収めれば誰でも立ち会うことができる。
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2007/8/16


国見ケ丘 Kunimi-ga-oka Kunimigaoka Hill

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 国見ケ丘(くにみがおか)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある標高513mの小高い丘である。
 神代の昔、神武天皇の孫にあたる建盤竜命(たていわたつのみこと)が九州統制の折り、この丘に立ち、明け暮れに国見をした事から、国見ヶ丘と呼ばれるようになったと伝えられる。
 国見とは、秋の豊穣にかかわる呪的景物を見て、豊穣を祝する儀礼である。
 丘からは、西に阿蘇の五岳、北に祖母の連山、東に天香具山、高天原、四皇子峰や高千穂盆地、眼下に五ヶ瀬川の渓流が見渡せる。
 一〇月上旬~一一月上旬ごろの早朝は、冷え込んだ朝に発生した霧が高千穂盆地やとりまく山々の間に沈み、まるで真綿を敷き詰めたように盆地の集落を覆い隠す。足もとからわき立つ雲海の眺めは、大変に素晴らしい。
 国見ケ丘は、美麗な眺望と幽玄な雲海を持つ場所である。
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