NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/12/12


箱根宿 Hakonejuku 

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 箱根宿(はこねじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。
 箱根宿は、慶長六(1601)年の宿駅制の発足から17年ほど遅れて設置された宿場である。箱根は険しい峠を越えなければならず、東海道随一の難所であったため、旅人の苦労を軽減しようと、急きょ両隣の小田原宿、三島宿から50軒ずつ移住させて作らせた。
 これにより、箱根には小田原藩の領地と幕府の天領があり、ひとつの宿場にふたりの領主がいるという、他の宿場にはない特徴があった。
 標高800mの地にあった箱根宿付近の並木には、楓が植えられ、春の新緑や秋の紅葉と、宿場道に趣を添えていたという。「箱根越え」に疲れた旅人たちは、この並木を見て旅の疲れを癒したのだろうか。
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2008/11/21


鶴岡八幡宮 流鏑馬 tsurugaoka-hachimangu-yabusame 

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 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社である。祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)。
 康平六(1063)年、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりで、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
 流鏑馬(やぶさめ)は、文治三(1187)年八月一五日に鶴岡八幡宮放生会に際し、源頼朝が流鏑馬を催行した事に始まるといわれる神事で、現在は鶴岡八幡宮にて毎年九月一六日に行われている。
 鎌倉武士の狩装束に身を包んだ射手が、馬で駆けながら馬場に配された3つの的を射抜く勇壮な行事で、弓馬術礼法小笠原教場宗家の協力により、鎌倉時代さながらに執り行われている。
 鶴岡八幡宮の流鏑馬は、800年間続いている伝統的神事である。
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2008/10/31


箱根大文字焼き hakone-daimonji-yaki 

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 箱根大文字焼き(はこねだいもんじやき)は、神奈川県足柄下郡箱根町にある標高1438mの箱根山にて、毎年八月一六日に行われている行事である。
 明神ヶ岳の山頂付近に、大きく「大」の文字が浮かび上がる箱根大文字焼きは、「強羅(ごうら)夏祭り」のメインイベントとして行われており、この夜には同時に花火大会も行われる。
 大正一〇(1921)年、別荘地として強羅の分譲が始まり、箱根登山鉄道が開通した後に、大文字焼は始まった。
 最初は観光や避暑客の慰安のために行われていたが、関東大震災をきっかけに、霊を慰める盂蘭盆会の送り火の意味合いを持つようになった。
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2008/10/30


大磯宿 Ooisojuku 

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 大磯宿(おおいそじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県中郡大磯町にあった。
江戸時代に徳川家康が宿場制度を成立、日本橋から京都までの幹線道路として東海道を整備した際に53箇所敷設した宿場のうち、大磯宿は日本橋から8番目の宿場として作られた。
 日本橋からは66kmの距離にあり、もし徒歩なら16時間ほどかかることになる。大磯宿は、両隣の平塚宿と小田原宿の間が東海道でも有数の近距離になるため、宿泊者が少なかったようである。
 現在、宿場町としての名残をとどめるものは数少ないが、山王町の旧東海道と国道1号の松並木は往時を偲ばせる。旧東海道の「化粧坂(けわいざか)」付近の風景は、安藤広重が浮世絵「東海道五十三次・大磯虎ヶ雨」に残している。
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2008/10/28


藤沢宿 Fujiswashuku 

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 藤沢宿(ふじさわしゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県藤沢市にあった。
 藤沢は鎌倉時代から遊行寺の門前町として栄え、慶長六(1601)年の藤沢宿の成立でさらに大きな発展を遂げた。また、江ノ島が約1里と近くにあったため、弁財天参拝でより一層賑わいを見せたという。
 江戸時代の初めに、現在の藤沢公民館の周囲にあった「藤沢御殿」(徳川将軍家の宿泊施設)を中心に発展し、江戸中後期には、街並み軒数が一千軒にもなったと言われている。現在は、その街並みも様変わりしているが、面影を残す蔵など、往時の名残を今に伝える場所や資料は少なからず残されている。土蔵造りの店構えを持つ「店蔵(みせくら)」もところどころ見られ、現在も営業を続けている店もある。東海道五十三次、6番目の藤沢宿。その魅力を探す歴史散歩を楽しむ人々も多い。
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平塚宿 Hiratsukajuku 

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 平塚宿(ひらつかじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県平塚市にあった。
 慶長六(1601)年に宿駅制度を成立させた徳川家康は、日本橋から京都までを結ぶ幹線道路として東海道を整備し、寛永年間までに53箇所の宿場を作った。平塚は、宿駅制度成立と同時に日本橋より7つめの宿場に指定された。本陣・脇本陣のほか約50軒の旅籠屋があったが、宿泊より休憩に使われることが多かったようである。
 平塚宿を描いた浮世絵は、安藤広重作のものを始め、多くの作品が残されている。平塚より望む富岳や大山、市内を横切る高麗山などがモチーフとなっている。平塚宿を出て西に向かえば、高麗山が前面に立ちふさがる様子は、昔も今も変わらない。
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2008/10/17


虎踊 Tora-odori 

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 虎踊(とらおどり)は、神奈川県横須賀市西浦賀に伝わる伝統芸能である。
 毎年六月の第二土曜日に、西浦賀にある為朝神社(ためともじんじゃ)で舞われ、奉納されている。
 享保五(1720)年に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に一緒に伝えられたとされ、人形浄瑠璃作家・近松門左衛門の「国姓爺(こくせんや)合戦」を題材にしたという。
 踊りは歌舞伎や唐人踊りが取り入れられた珍しいもので、国姓爺合戦に登場する和藤内(わとうない)もそのまま登場、唐に渡った和藤内が、唐の子供である唐子達と交流を深め、暴れまわる虎を神符でもって退治するという筋書きである。
 虎は親子二体で、親虎には大人一人が入り、子虎には子どもが二人ずつ入って、『シラミ取り』や 『谷のぞき』など本物さながらの迫力ある芸を魅せてくれる。
 県の無形民俗文化財にも指定されており、異国情緒を放つ豪快な物語は、今も見る人々を惹きつけて止まない。
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2008/10/15


小動神社 Koyurugi-jinjya 

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 小動神社(こゆるぎじんじゃ)は、神奈川県鎌倉市腰越の小動岬に位置する神社である。
 観光地江ノ島を擁する七里ケ浜と腰越港の間に突き出す小動岬の一角に立つ、旧腰越村の鎮守社である。
 その創建は文治年間(1185~1189)、当時の源平合戦の際に武将・佐々木盛綱が、近江国の八王子宮を勧請したものと伝えられており、江戸時代までは八王子社と呼ばれていた。
 元弘三(一三三三)/正慶二年には南北朝時代の武将・新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めの戦勝を祈願したと伝えられ、後に寄進された黄金で、社殿が建設されたといわれている。
 その後、明治の神仏分離に伴い、岬の名をとって小動神社と改称し、今に至っている。
 風光明媚な場所であり、幕末には近くにお台場が築かれていた。
 境内には見晴台も設けられており、眼前に迫る江の島や相模湾を一望する事ができる。
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