NIPPON Kichi - 日本吉

記事数9件: 1~8 件表示     >>     >|  

2007/11/9


鶴舞公園 Tsuruma-kouen 

Jp

 鶴舞公園(つるまこうえん)は、愛知県名古屋市昭和区鶴舞にある公園である。読みは「つるま」が正しいが、「つるまい」公園と言う人も多い。
 明治四二(1909)年、名古屋最初の公園として開設され、翌年には第10回関西府県連合共進会の会場となっている。
 当初の噴水塔、奏楽堂、胡蝶ヶ池、鈴菜橋、聞天閣に加えて、幾何学模様の花壇、芝生など近世フランス式の庭園や、回遊式の日本庭園などを順次整備し、その後、運動場や動物園、図書館、公会堂なども作られた。
 噴水塔の北側に広がる桜林は春にはライトアップされ、夜桜見物を楽しめる人気のスポットで、対象的に竜ヶ池周辺は浮見堂や水面が一味違った趣を演出して、しっとりとした雰囲気を味わえる。
 鶴舞公園は、豊かな自然と数々の施設を併せ持つ景勝地である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/5


大島 シュードタキライト Ooshima shudo-takiraito 

Jp

 シュードタキライトは、断層が高速で動いた時に両側の岩石が摩擦熱によって溶け、それが急激に冷えて固まってできる黒色ガラス質の岩である。古い時代に地震を発生させた震源断層そのものであり、「地震の化石」と呼ばれる。
 大島(おおしま)は、八幡浜市(やわたはまし)沖合の宇和海に浮かぶ5つの島からなる。大島本島の南端部に、約500mにわたって分布する大島変成岩の最下部には、シュードタキライトが発達している。これを含む断層帯は3帯あり、それぞれ幅2~3m、長さ10~50mで国内最大級。今から5~6千万年前の、当時の中央構造線の活動に伴って形成されたと考えられている。
 大島のシュードタキライトは、1995年に発見された。規模が大きく学術的にも非常に価値の高いものであることから、市の天然記念物に指定されている。八幡浜市図書館の入り口には、シュードタキライトが展示されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/27


旧東奥義塾外人教師館 Kyuu-touougijuku-gaijin-kyoushi-kan 

Jp

 旧東奥義塾外人教師館(きゅうとうおうぎじゅくがいじんきょうしかん)は、青森県弘前市下白銀町にあった私学校である。
 明治五(1872)年、東奥義塾は、私学校として青森県内で最初に開校した。
 明治二三(1890)年、東奥義塾は、指導の強化のために招いた外人宣教師用の住居・宣教師館を建築する。
 明治三三(1900)年、アメリカのメソジスト・ミッションボードで設計されたものを堀江佐吉らが再建した。
 現在、旧弘前市立図書館と共に追手門広場において公開されており、近隣には弘前市立郷土文学館もある。
 煉瓦の土台と窓を多く設けた造りが特徴で、フランス料理店や洋館を改装してつくられた雰囲気のいいカフェも併設されている。
 旧東奥義塾外人教師館は、実際に外国人教師が暮らしていた、明治の居住空間である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/5/9


箕浦家武家門 Minourakebukemon The Buke-mon Gate of the Minoura Family

Jp En

 鳥取県は県道323号線を挟んで県庁と向かい合わせに、白壁造りの堂々とした武家門が建つ。「箕浦家武家門」である。
 もともとは江戸時代の旧藩士・箕浦家二千石の武家屋敷の表門で、鳥取城のお堀端の南隅にあったもの。昭和十1(1936)年に鳥取師範学校の増改築の際に、校門として現在の位置に移築された。
 その後、鳥取大学付属中学校の通用門として使われ、県立図書館の新築に伴い解体修理され、現在に至る。市内に現存する唯一の武家門として鳥取市の保護文化財に指定、保存の対象となっている。
 白いナマコ壁に黒い瓦葺のコントラストが美しい。威風堂々としたその姿は、江戸の侍の威厳をそのまま映したかのようである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/3/14


鶴丸城 Tsurumaru-jyou Tsurumaru Castle Ruins

Jp En

 鶴丸城(鹿児島城)は、鹿児島県鹿児島市城山町にあった城である。県指定史跡となっている。
 慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦に敗れ、家督を譲られた島津家久が築城した城である。
 「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくられた、天守閣のない質素な城であった。
 鶴丸城の名は、城の形が翼を広げた鶴に似ていた事からである。
 鹿児島は災害の多い地であり、鶴丸城は幾度も焼失・倒壊し、そのたびに立て替えが行われた。
 幕末の薩英戦争当時は、イギリス戦艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれている。
 明治4(1871)年、焼失を最後に、再建されなかった。
 現在、遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地などが残されている。また、城趾には歴史資料センター「黎明館」、県立図書館、市立美術館などが建っている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します