NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/1


さつま焼 Satsuma-yaki 

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 さつま焼は、鹿児島県に古くから伝わり、四百年の歴史を持つ伝統工芸品である。
 起こりは江戸時代に遡る。元禄・慶長の役の頃、当時の薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から陶工を薩摩に連れ帰ったのが始まりだ。その陶工たちが研究を重ねて薩摩の土と向き合い生まれたのがさつま焼である。
 最大の特徴は、白土を使ったその白い焼き色。その高貴な風合いは白もんと呼ばれ、藩主のみに使用が許されたという。また、赤、青、緑、金彩で彩色する豪華で繊細な金襴手という高度な手法や、小刀で緻密な透かし彫りを行うのも特徴のひとつ。さつま焼には陶工たちのたゆまぬ努力の証、繊細で優雅な技が尽くされているのだ。
 慶応三(1867)年にはパリ万博に出展、大絶賛される「SATSUMA」の名を世界に轟かせた。平成十四年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
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2008/4/4


平清水焼 Hirashimizu-yaki 

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 平清水焼(ひらしみずやき)は山形市平清水で焼かれる陶磁器をいう。江戸後期の文化年間、地主の丹羽治左衛門が茨城から陶工の小野藤次平を招き、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まりとされる。
 原土の性質を活かしたものが多く、美しさだけでなく、温もりと優しさのある作品に仕上がっている。現在は六つの窯元が伝統を守り続け、また、それぞれに個性を発揮している。
 平吉窯(へいきちがま)は、従来の釉調を一段と高め研究に余念がない。天沢窯(てんたくがま)は、平清水焼の伝統技を主力に自然青地なども手がける。七右エ門窯(しちえもんがま)は、豊富な種類の釉薬に力を入れる一方、ほとんど釉掛けをしない作品も手がける。青龍窯(せいりゅうがま)は、千歳山の原土を生かした「梨青瓷(なしせいじ)」発祥の窯元として知られる。文右エ門窯(ぶんえもんかま)は、土味を生かした素朴な風情のある作風が魅力。雷神窯(らいじんがま)は、個性豊かな工夫をこらした芸術性の高い作品が目を引く。
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2008/3/18


松橋焼 Matsubase-yaki 

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 熊本県宇城市(うきし)の松橋町で生まれた陶磁器として知られる「松橋焼(まつばせやき)」は、江戸時代初期から伝わる焼物である。
 文禄・慶長の役(1592~1598)の際、加藤清正・細川三斎らが朝鮮から陶工を呼び寄せ、熊本の近世の窯業が始まったといわれている。
 松橋町の松橋焼も、江戸時代初期から中期にかけて盛んに焼かれ、松橋の土を焼いた素朴な風情は当時の茶人達に好まれたと伝えられる。しかし、当時のものは散逸してほとんど伝わっていない。
 昭和四七(1972)年、陶芸家を父に持つ原構成が、松橋焼の再興と新たな気を吹き込むため現在地に「構成窯」を築窯。松橋焼は、松橋の鉄分を含む砂気のある粘土と青磁釉でつくられ、主に食器類が生産されている。
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2008/3/11


天草 高浜焼 Amakusa Takahama-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、高浜焼(たかはまやき)はこれらを代表する磁器の一つ。
 宝暦一二(1762)年、上田伝五右衛門が天草西海岸に産出される純度の高い陶石を使用して磁器を作るため、肥前の陶工を招いて高浜に窯を開き、白磁の生産をしたことに始まる。安永六(1777)年、長崎奉行によりオランダ向きの焼物製作を命じられ、染付色絵の欧風皿などの生産を行い、明治三三(1900)年まで続けられたが廃窯した。昭和二七(1952)年に再興され、現在は白磁の食器類を中心に作られている。
 現代の生活様式に調和する「白く」「薄く」「透明な」をモットーに、世界に誇る天草陶石の良質の原料を生かし、洗練された高度な技を駆使して焼き継がれている。
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2008/2/29


楢岡焼 Naraoka-yaki 

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 楢岡焼(ならおかやき)は、秋田県大仙市南外に伝わる伝統陶器である。
 文久三(1863)年、地元旧家の小松清治が、秋田の寺内焼の陶工を招いて窯を作らせたのが始まりとされ、以後、小松氏が5代に亘って窯を守ってきた。
 時代と共に技術改良を重ねた結果、今日に見られる美しい青味を持つ焼き物が完成した。
 楢岡焼の最大の特徴は、高温で焼成した海鼠釉(なまこゆう)を、更にもう一度、酸素を入れない還元方法で炭火焼成する「海鼠釉焼締め」にある。
 この技法が、美しい青色と、時に窯の中の炎と隆灰で起こる微妙な釉の変化の面白さを生み出しているとされる。
 楢岡焼は、土を活かし、装飾を控え、使いやすさと温もり、そして美しさを追及した、秋田県が誇る伝統工芸品である。
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2008/2/25


中山人形 Nakayama-ningyou 

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 中山人形(なかやまにんぎょう)は、秋田県横手市の樋渡家(ひわたけ)に伝わる土人形で、元々は子供のおもちゃとして作られた。
 佐賀の鍋島藩お抱えの野田宇吉という陶工が、岩手の南部藩に雇われ、陶土を求めて横手にやってきた。その時、地元の樋渡ヨシが宇吉の長男と知り合い結婚し、義父から粘土細工を習い、横手地方に古くから伝わる串姉っこ人形からヒントを得て創作したのが始まりといわれている。明治七(1874)年頃のことで、窯のあった地名にちなんで中山人形と名付けられた。
 その後、樋渡家の後継者により改良が加えられ、型おこしの素焼きに手描きの彩色を施した明るい作風が郷土玩具愛好者らに支持され、広く知られるようになった。
 近年は、お雛様や天神様などの縁起物や歌舞伎を題材にした伝統人形を継承しながらも、時代にマッチした新作を次々と発表している。特に干支にちなんだ「干支土鈴」は最も人気があるシリーズで、その中の「土鈴羊」は昭和五四(1979)年度の年賀切手の図案に採用された。
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金重陶陽(人間国宝) KaneshigeTouyou 

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 かねしげ・とうよう。明治二九(1896)年一月三日~昭和四二(1967)年一一月六日。岡山県出身の陶芸家で、昭和三一(1956)年、備前焼の陶工として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 和気郡伊部村(現在の備前市伊部)に生まれた陶陽は、備前焼の窯元であった父・楳陽に陶技を学ぶ。二二、三歳の頃には、その技術の高さが近隣の窯業地帯に知れ渡り、村まで引き抜きに訪れる者がいたほどだったという。
 初めは細工物を制作していたが、後に桃山備前の研究に取り組み、ついに予期しない色を生み出す「窯変(ようへん)」を人為的に作ることに成功。桃山備前を現代に甦らせた。また、昭和七(1932)年にはろくろによる作陶を開始、以降は茶陶を中心とする制作を続けた。
 有田焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させた陶陽は、「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から人間国宝が輩出するなど、功績は計り知れない。
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2008/1/24


高田焼 Kouda-yaki 

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 高田焼(こうだやき)は別名・八代焼(やつしろやき)とも呼ばれ、熊本県八代市に四〇〇年以上伝わる焼物である。
 陶工・尊楷(そんかい)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した折に連れてきた、数多くの優れた技術者のひとりである。一度本国へ戻り、高麗焼の技法を身につけた尊楷は、慶長七(1602)年、現在の福岡県北九州市にあたる豊前小倉の藩主・細川忠興に招かれ、上野(あがの)の窯を築いたと言われている。
 その後、細川藩の肥後転封に伴って、尊楷は息子達と共に八代郡高田郷奈良木村に窯を開き、それが後に高田焼と呼ばれるようになったという。
 素地が完全に乾く前に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込む。そして余分な土を削り落とした後に透明な釉薬をかける、白土象嵌(ぞうがん)と呼ばれる特殊な技法が特徴的である。
 高麗の伝統を日本の今に伝える、美しく貴重な焼物である。
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