NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/1


新庄まつり Shinjou-matsuri Shinjo Festival

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 新庄まつり(しんじょうまつり)は山形県新庄市に古くから伝わる祭りである。
 宝暦六(1756)年、出羽新庄藩五代目藩主、戸沢正諶(とざわまさのぶ)が五穀豊穣を祈願するために、新庄城内にある天満宮の祭典を行ったことが始まりとされている。前年の大凶作や疫病によって落ち込んでいた領民達は、この祭りによって活気と希望を持つことができたと伝わる。
 祭りは八月の三日間にわたって行われる。
 歌舞伎の名場面や歴史故事を再現した山車の、幻想的な曳きまわしが行われる「宵まつり」。古式ゆかしい、厳かな神輿渡御行列(みこしとぎょぎょうれつ)が見所の「本まつり」。そして山車を見て楽しむことができる「後まつり」がある。
 また、「鹿子踊(ししおどり)」という、カモシカを模した珍しい民俗芸能が戸沢神社と護国神社に奉納され、五穀豊穣を祈願する。
 街中がお囃子の音に包まれる、東北の夏を締めくくる三日間である。
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2007/12/11


青梅 天寧寺 Oume Tennei-ji 

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 青梅市根ヶ布の天寧寺(てんねいじ)は、曹洞宗の寺院で、北陸の永平寺にならった回廊式の伽藍配置である。
 天慶年間(938~946)平将門によって開創された。後に兵火にあい、堂宇は焼失、廃寺となり、その後青梅周辺を治めていた勝沼城主・三田氏宗が、文亀年間(1501~1504)に開基した。江戸時代に入ると、末寺三七を数える大きな寺へと成長した。
 山門は宝暦九(1759)年の建築で、左右には二天像の多聞天と増長天の像がある。
 その山門を入って左側にある鐘楼の鐘は、大永元(1521)年、氏宗の子である政定が奉納した大梵鐘で、三田氏の貴重な金石文とされ、国の重要美術品として知られる。
 本堂は宝永四(1707)年に造られたもので、中央に祀ってある木造の釈迦如来坐像は、青梅市指定の有形文化財となっている。
 また、本堂の裏側には霞ヶ池があり、かわせみなどの楽園として知られる。この池が源となり霞川が始まり、入間川、荒川、そして東京湾に注がれている。
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2007/11/16


御物頭御番所 Omonogashira-gobansho 

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 御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)は、秋田県秋田市の保田城跡にある千秋公園に建つ史跡である。
 宝暦八(1758)年から安永七(1778)年の間に建築されたと推定される、秋田20万石佐竹氏の居城・久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物とされている。
 御物頭御番所は、「物頭」と言われた足軽の組頭が長坂門の開閉や登城者の監視をし、城下町一帯の警備や火災の消火等を行っていた場所である。
 二の丸から長坂を登った表門の手前にある建物で、木造2階建て、内部には14畳の番所、7畳の休息室、台所、便所、2階には8畳の部屋があり、屋根は切妻藁葺きで正面南側に庇が付いている。
 御物頭御番所は、往時の姿を今に伝える建築物である。
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2007/10/5


秋葉まつり Akiba-matsuri Akiba Festival

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 知立神社(ちりゅうじんじゃ)は池鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん)とも呼ばれ、江戸時代には東海道三社のひとつに数えられた。境内には室町時代に建てられた多宝塔(国指定重要文化財)をはじめ、舞楽面、能面、獅子頭面などの貴重な文化財が多数残されている。
 知立神社の祭りはいくつかあるが、毎年九月に行われる「秋葉(あきば)祭り」は、敷地内に鎮座する秋葉神社の例祭である。春の知立神社大祭に対応した秋祭りとして、神楽や人形浄瑠璃などを奉納していたことが、宝暦六(1758)年の祭礼帳に記録されている。
 明治四〇(1907)年頃には手筒花火の奉納が始まり、以降、花火が秋葉祭りの中心となった。日中は市内にある西町、山屋敷町、宝町、山町、中新町、本町の六町の若衆が、花火玉に見立てた石を入れた玉箱をかつぎ、「長持ち歌」を歌いながら威勢よく町内を練り歩く。夕方になると知立神社に宮入りをし、円陣を組んで勇壮な手筒花火や打ち上げ花火を披露する。
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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/9/11


補陀寺 六角堂 Hoda-ji Rokkaku-dou 

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 気仙沼のほぼ中心に位置する、静かな境内に佇む六角形のお堂。それが補陀寺六角堂(ほだじろっかくどう)である。
 全国的には、和様円堂は八角形が一般的であり、この六角堂のように六角形をしているものは珍しい。屋根は六角錐体で赤瓦が葺かれ、内外部共に朱塗りの須弥壇(しゅみだん)となっており、板天井には墨絵が描かれている。
 建立は宝暦一二(1762)年と伝えられ、江戸中期の技巧をこらした精巧で華麗なお堂として、宮城県の指定文化財ともなっている。
 このお堂には平安末期に名取熊野神社を勧請したと伝えられる伝説上の人物、名取老女が奥州を巡礼して建てた「奥州三十三観音霊場」の一つといういわれがあり、三〇番目の札所となっている。
 その後、奥州三十三観音霊場が衰退していく中、奥州札所再興の大願成就を発願して、この六角堂が建立されたといわれる。
 八角形ではなく六角形であるところに、歴史の伝説とロマンが、もしかしたら隠されているのかもしれない。
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2007/8/27


伊勢崎神社 Isesaki-jinja Isesaki Shrine

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 伊勢崎神社は、群馬県伊勢崎市本町にある神社である。祭神は、保食神(うけもちのかみ)、八衢比古命(やちまたひこのみこと)。
 建保元(1213)年、三浦介義澄によって、飯福神社と言う名で創建されたと伝えられる。
 元徳元(1329)年、国司の新田義貞が現在地に遷宮し、八坂神、稲荷神、菅原神の三神を合祀し、社殿を修理した。
 宝暦九(1759)年、社殿を造営したが、火災により焼失。嘉永元(1848)年、現在の社殿が再建され、本殿には、緻密にして壮麗な彫刻が施されている。
 大正一五(1926)年、町内数社を合併後、伊勢崎神社と改称した。
 初宮詣、七五三詣、新年祈願、厄除けなど、一年を通じて多くの参拝者で賑わっている。
 伊勢崎神社は、旧名から「いいふくさま」として慕われている、歴史のある古社である。
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於菊稲荷神社 Okiku-inari-jinja Okiku Inari Shrine

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 於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)は、群馬県高崎市新町にある神社である。祭神は、稲荷大明神。
 天正一〇(1582)年、神流川合戦の際、白いキツネが現れ北条氏が勝利を収めた。この神徳に感謝して、この地に稲荷神社を構えたのが創祀と伝えられる。
 宝暦年間(1751~63年)、落合新町宿の旅籠・大黒屋に、類い希な美貌で気だての良い、於菊という娘がいたという。
 その於菊が、風邪をこじらせて重い病に伏せ、神社裏の小屋で寝ること3年、ある夜於菊の枕もとに稲荷の霊が現れて、於菊の病は奇跡的に全快した。
 於菊は神に感謝し、神社で神明奉仕に身を捧げ、以来、この神社は於菊稲荷神社と呼ばれるようになったと言われている。
 於菊稲荷神社は、伝承に彩られた稲荷神社である。
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