NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/24


快慶 Kaikei 

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 快慶(かいけい)は、鎌倉時代に活動した仏師である。
 生没年は未詳で、寿永二(1183)年に運慶(うんけい)が自ら発願し写経をした法華経の結縁者の一人として快慶の名が見える。
 運慶が没した貞応二(1223)年に、醍醐寺閻魔堂(だいごじえんまどう)の諸像の制作に従事している事から、ほぼ運慶と同年代に活躍した仏師で、運慶の父・康慶(こうけい)の弟子と考えられている。
 快慶は、熱心な浄土信仰の持ち主で、南無阿弥陀仏・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に帰依し、安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)と名のった。
 快慶は慶派の様式を基礎としながらも、平安後期の様式や宋風を取り入れた新様式を生みだした。衣文線をきれいに整え、美しさを強調した来迎印の阿弥陀如来像を数多く作り、その作風は「安阿弥様」とよばれている。
 快慶は、運慶とともに鎌倉時代を代表する名仏師である。
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2008/7/7


平家納経 Heike-noukyou 

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 厳島神社(いつくしまじんじゃ)に伝来する装飾経(そうしょくきょう)。装飾経とは、仏教で使用される経典の中でも料紙に美麗な装飾を施したものを指す。
 この『平家納経』(へいけのうきょう)は、長寛二(1164)年、平清盛が平家の繁栄を願って厳島に奉納したといわれる三十二巻におよぶ経文で、制作には一門の一人ひとりがあたった。法華経二八巻に法華経の開経、結経の無量義経・観普賢経、さらに阿弥陀仏と般若心経を加え、願文を添えた三三巻から成る。
 各経文とも、表紙や見返し、本文の料紙の細部に至るまで煌びやかな装飾や王朝の優雅さを示す絵画で飾られ、「金銀荘雲竜文銅製経箱」と呼ばれる基台に乗せられた経箱に納められている。これには一門の総帥である平清盛のもつ飛び抜けた美的センス、独特な感性が大いに反映されており、まさに平安末期を代表する美術工芸品といえる。
 当時の平家の栄華を今に伝える美の傑作として、現在は国宝となっている。
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2007/12/10


蓮着寺 Renchakuji 

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 蓮着寺(れんちゃくじ)は、静岡県伊東市富戸にある法華宗陣門流の霊跡別院である。山号は俎岩山(そがんざん)。
 弘長元(1261)年、法華宗の宗祖である日蓮は、鎌倉幕府への批判をとがめられて伊豆国伊東に流罪となった。これが「伊豆法難」である。
 この際、日蓮は烏崎の海上の俎岩(まないたいわ)に置き去りにされ、漁師に救われたという。以後一年九ヶ月にわたり、日蓮はこの地に留まった。
 永正五(1508)年、正乗院日云(にちうん)が日蓮の霊跡を探してこの地に至り、蓮着寺として開山した。
 境内には上人ゆかりの袈裟掛けの松の根株や、石が幹にくい込んだ石喰いのモチの木、県天然記念物に指定されているやまもも「やんもの木」などが存在する。
 蓮着寺は、日蓮の伊豆法難ゆかりの古寺である。
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2007/10/4


日蓮 Nichiren Nichiren

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 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。
 貞応元(1222)年、安房国(千葉県)に誕生。一二歳で天台宗の山岳霊場・清澄寺に入り、道善房を師として、四年後に出家。
 その後、比叡山を拠点に、京都や奈良の諸寺、四天王寺、高野山に遊学。念仏、禅、真言を経て、仏教の真髄を「妙法蓮華経(法華経)」に見出す。
 建長五(1253)年、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、清澄寺で立宗宣言し、名を日蓮と改める。
 他宗批判を目的とした『立正安国論』を著し、幕府や僧からの反発を招く。生涯、四度の法難をくぐり抜けた。
 晩年は、甲斐国(山梨県)の身延に隠棲し、信仰指導を続けた。『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。他に、「大曼陀羅本尊」を完成させた。
 武蔵国(東京都)にて、六一歳で死去。皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号(しごう)が贈られた。
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2007/8/23


御殿万歳 Goten-manzai Goten Manzai

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 万歳のルーツである法華経(ほけきょう)万歳。そこから宗派に合わせて派生した四つの万歳。合わせていわゆる五万歳と呼ばれるものはそれぞれ作法に特徴がある。
 五万歳の一つ「地割万歳」は屋敷を建てる時に祝う万歳で時と場所を選ばない。この「地割万歳」を基に天保年間(1830~1844)に考え出されたのが「御殿万歳(ごてんまんざい)」と言われている。
 新春に鶴と亀が家を訪れ、柱一本一本に各地の神々を呼び込んで瓦を伏せ、最後に七福神が現れて新築を祝うという内容で、家つまり御殿が建つ様子から「御殿万歳」と呼ばれた。厳格な中にもめでたさと面白さが盛り込まれているため、華やかな舞台芸として、また軽妙な掛け合いで笑いを強調した祝福芸として、各地の万歳に取り入れられながら伝承されていった。
 平成七(1995)年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
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尾張万歳 Owari-manzai Owari Manzai

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 愛知県知多市に伝わる「尾張万歳(おわりまんざい)」は「知多万歳」とも呼ばれ、平成八(1966)年に国の重要無形民俗文化財に指定された伝統芸能である。
 鎌倉時代の正応年間(1288~1293)、現在の名古屋市東区矢田町にある長母寺(ちょうぼじ)を開いた無住(むじゅう)国師が、寺に仕える村人に法華経を覚えやすいように歌えるものにした「法華経万歳」が起原とされている。
 伊勢・紀伊・遠江・木曽などを廻った尾張万歳は大衆にも受け、各地の万歳にも影響を与え大正時代には隆盛を極めた。
 扇子をかざして祝詞を言い立てる太夫(たゆう)一人と、小鼓で合いの手を入れる才蔵(さいぞう)一人が二人一組になって演じるのが基本であるが、才蔵の数を四人に増やしたり、楽器も三味線や胡弓を加えたり、と現在は華やかな舞台向けの芸として伝承されている。
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2007/2/1


法起寺(世界遺産) Houki-ji Hokiji Temple

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 法起寺(ほうきじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の寺院。
 斑鳩の里には、世界遺産・法隆寺をはじめ法輪寺、中宮寺など、聖徳太子ゆかりの古代寺院が存在し、この地が早くから仏教文化の栄えた地であったことがわかる。この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われ、舒明(じょめい)天皇十(638)年、太子の遺言により、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりとされている。
 伽藍は、金堂と塔の位置が法隆寺と逆になった方式で、「法起寺式伽藍配置」と呼ばれる。なお、創建当時の建築で現存するものは三重塔のみ。現存する三重の塔の中ではわが国最古のものである。
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