NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/1


さつま焼 Satsuma-yaki 

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 さつま焼は、鹿児島県に古くから伝わり、四百年の歴史を持つ伝統工芸品である。
 起こりは江戸時代に遡る。元禄・慶長の役の頃、当時の薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から陶工を薩摩に連れ帰ったのが始まりだ。その陶工たちが研究を重ねて薩摩の土と向き合い生まれたのがさつま焼である。
 最大の特徴は、白土を使ったその白い焼き色。その高貴な風合いは白もんと呼ばれ、藩主のみに使用が許されたという。また、赤、青、緑、金彩で彩色する豪華で繊細な金襴手という高度な手法や、小刀で緻密な透かし彫りを行うのも特徴のひとつ。さつま焼には陶工たちのたゆまぬ努力の証、繊細で優雅な技が尽くされているのだ。
 慶応三(1867)年にはパリ万博に出展、大絶賛される「SATSUMA」の名を世界に轟かせた。平成十四年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
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2008/9/12


小幡焼 Obata-yaki 

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 小幡焼(おばたやき)は、上州の小京都、群馬県甘楽郡小幡で作られている焼物である。
 いつごろから始まったのかは定かではないが、江戸時代には粉引きを中心に作陶されていたと見られている。織田信長の次男である織田信雄が築庭し、国の名勝にも指定されている楽山園の近くに登り窯が築かれたことから楽山園焼とも称されている。
 粉引きはもとより、単純な文様のみの壺や茶碗、鉢、湯のみなど素朴な中にも味わいのあるものを作陶している。
 また、桃花紅と呼ばれる、清朝時代に作られたといわれる陶器の再現にも成功したことでも知られている。焼成が難しく、再現は至難とされていたが、その淡い桃色や緑がかった桃色の透き通るような美しい表面は、小幡焼の元で今日に復活を遂げたのである。
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2008/9/11


膳所焼 Zeze-yaki 

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 膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所で焼かれる陶器をいう。江戸初期に膳所藩のお庭焼として誕生し、藩主・石川忠総の時代(1634~1650年)に全盛期を迎えた。作品はすべて大名間の贈答用茶道具で、歴代藩主と親交の深かった大名茶人・小堀遠州の指導を受けて評判を上げ、茶人の間では遠州七窯の一つとして重宝された。
 以後は衰退したものの、大正八(1919)年に膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が、友人の画伯・山本春挙と手を組んで別邸に登り窯を築き再興。彼は生涯にわたって膳所焼の復興に尽力し、その甲斐あって窯の火を絶やすことなく今日に至っている。
 薄作りで黒みを帯びた鉄釉(てつゆう)に特徴があり、遠州好みの「きれいさび」と言われる上品な作りで、特に茶入と水指が名高い。現在は膳所焼美術館にて過去の作品を見ることができ、最近の作品を買うこともできる。
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2008/6/10


銅蟲 Doucyuu 

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 銅蟲(どうちゅう)とは、銅の表面に独特の鎚目(つちめ)と赤銅色を出すことに特徴を持つ銅製品で、広島県指定の伝統工芸品である。
 江戸時代初期、広島藩主・浅野長晟(あさのながあきら)がお抱の銅細工職人に創案させた技法といわれており、その職人の仕事振りに痛く感心した浅野公が「銅の蟲(むし)のようだ」といったことから、その名が付けられたとされている。
 その製法は、まず特殊な銅の合金板を焼き鈍して成型加工した上で、表面を金づちで叩いて槌目の模様を入れる。その後に稲藁で一品一品を燻すことで、他に類を見ない独特の深みと重厚感を持った赤銅色が浮かび上がってくる。
 表面は乾拭きすることで、年月と共に光沢や渋味が増し、漆黒の表目に浮かぶ赤銅色の独特の風合は、よりいっそう、その魅力を解き放つ。
 茶人や趣味人にも愛されたそれらの逸品は、主人の傍らで同じ年月を過ごしながら、日々、その輝きを増していく。
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2008/5/19


真朱焼 Shinsyu-yaki 

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 真朱焼(しんしゅやき)は、千葉県鎌ヶ谷市に伝えられている工芸品である。県の伝統的工芸品に指定されている。
 真朱焼は、大正時代、市川市在住の陶芸家・濱田敬山が、古代中国の鶏血焼(けいけつやき)を参考に創作したのが始まりとされる。
 現在では、陶芸家・三橋英作氏が唯一の継承者と言われている。
 昔の色は、真朱焼と読んで字の如く、現在のような真っ赤ではなく、朱色であった。
 サンゴのような真紅の陶器は戦後、西洋人の間で人気が高まり、昭和三〇年代末頃までその多くがアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに輸出品として生産された。
 平成一年から一〇年間、郵政省の年賀はがき三等賞品とされた事から、国内でも広く知られるようになった。
 真朱焼は、燃えるような真紅色が特徴の焼き物である。
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2008/4/9


朝日焼 Asahi-yaki 

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 朝日焼(あさひやき)は、京都府宇治市で焼かれる陶器を指す。この地では、古墳時代から焼きものが焼かれていた。室町時代に宇治茶の栽培が盛んになると、茶の湯向けの国産陶器が焼かれるようになり、これが朝日焼の原型ではないかといわれている。
 朝日焼の初代作陶は慶長年間(1596~1615)に宇治川のほとり、朝日山麓で開窯したと伝えられ、二代目の時に遠州七窯の一つに数えられるようになった。その後、苦しい時代を乗り越え、江戸末期には早くから御所への出入りを許され、全盛期を迎えた。伝統の窯と技は代々受け継がれ、今日に至っている。
 朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。師匠が焼いたものという意味の赤い粗めの斑点が表面に浮き出たような器を「燔師(はんし)」、燔師とは対照的に鹿の背中を思わせるきめ細かな斑点が見られる器を「鹿背(かせ)」、鹿背の中でも特に鉄分が多くよりくっきりと紅色が見える器を「紅鹿背(べにかせ)」と呼んで区別している。
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2008/4/4


平清水焼 Hirashimizu-yaki 

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 平清水焼(ひらしみずやき)は山形市平清水で焼かれる陶磁器をいう。江戸後期の文化年間、地主の丹羽治左衛門が茨城から陶工の小野藤次平を招き、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まりとされる。
 原土の性質を活かしたものが多く、美しさだけでなく、温もりと優しさのある作品に仕上がっている。現在は六つの窯元が伝統を守り続け、また、それぞれに個性を発揮している。
 平吉窯(へいきちがま)は、従来の釉調を一段と高め研究に余念がない。天沢窯(てんたくがま)は、平清水焼の伝統技を主力に自然青地なども手がける。七右エ門窯(しちえもんがま)は、豊富な種類の釉薬に力を入れる一方、ほとんど釉掛けをしない作品も手がける。青龍窯(せいりゅうがま)は、千歳山の原土を生かした「梨青瓷(なしせいじ)」発祥の窯元として知られる。文右エ門窯(ぶんえもんかま)は、土味を生かした素朴な風情のある作風が魅力。雷神窯(らいじんがま)は、個性豊かな工夫をこらした芸術性の高い作品が目を引く。
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2008/3/11


天草 高浜焼 Amakusa Takahama-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、高浜焼(たかはまやき)はこれらを代表する磁器の一つ。
 宝暦一二(1762)年、上田伝五右衛門が天草西海岸に産出される純度の高い陶石を使用して磁器を作るため、肥前の陶工を招いて高浜に窯を開き、白磁の生産をしたことに始まる。安永六(1777)年、長崎奉行によりオランダ向きの焼物製作を命じられ、染付色絵の欧風皿などの生産を行い、明治三三(1900)年まで続けられたが廃窯した。昭和二七(1952)年に再興され、現在は白磁の食器類を中心に作られている。
 現代の生活様式に調和する「白く」「薄く」「透明な」をモットーに、世界に誇る天草陶石の良質の原料を生かし、洗練された高度な技を駆使して焼き継がれている。
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