NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/9


登米薪能 Toyoma-takigi-nou 

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 毎年九月中旬、宮城県登米町の伝統芸能伝承館森舞台で、二三〇年の歴史を持つ登米薪能(とよまたきぎのう)が上演される。
 午後五時頃に火入りの儀が行われると、白砂の上にかがり火に囲まれた舞台が現れ、朗々とした格調高い演目がおよそ三時間上演される。薪の燃える音や香りが心地よく、日常生活とかけ離れた美しさに観客は魅了される。
 登米薪能は、伊達政宗が能を愛したことから、伊達一門である登米伊達家も能楽を公の儀式の式楽として取り入れたことにはじまった。その後武士の作法として伝承され、明治以降は地域住民に浸透し守られていく。登米薪能を現在まで伝承している登米謡曲会は明治四一(1908)年に発足、プロの域にまで届く高いレベルで伝統を守り続けている。
 宮城県無形民俗文化財に指定されており、チケットはすぐに売り切れとなる、人気の薪能だ。
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2008/9/8


水海の田楽能舞 Mizaumi-no-Dengaku-Nou-Mai 

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 水海の田楽能舞(みずうみのでんがくのうまい)は、福井県今立郡池田町水海の鵜甘(うかん)神社にて行われる伝統行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 建長二(1250)年、北条時頼がこの地を訪れ、雪深い池田に滞留して一冬を過ごす事となった。村人達は宴をひらき田楽を舞い、都を思い恋しくなる時頼を慰めると、喜んだ時頼がお礼に能を舞って村人達に教えた。その結果、田楽と能を合わせた珍しい田楽能舞が、この地に継がれる事となったと伝えられる。
 町内には色々な能面が残されており、小学校の授業で子供達が能面を作ったり、水海の田楽能舞の奉納を見学するなど、田楽能舞は人々の心に溶け込んでいる。
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2008/7/1


身曾岐神社 Misogi-jinja 

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 身曾岐神社(みそぎじんじゃ)は、山梨県北杜市小淵沢町にある神社である。祭神は天照太神(あまてらすおおかみ)。
 身曾岐神社の身曾岐とは、「身を清める」「きれい」になることを意味するという。
 天保五(1834)年、医者である井上正鐵(いのうえまさかね)は国家の祭祀を司る官庁・神祇官白川伯王家に入門し、古神道を開眼したとされる。
 明治一二(1879)年に、井上の高弟・坂田鐡安が東京の東上野に井上正鐵を祭り「井上神社」の建立をし、昭和四九(1974)年に火事で焼失。後の昭和六一(1986)年に、現在の山梨へ遷座するとともに、名称を「身曾岐神社」に改めたとされる。
 約34000平方mもある広大な敷地に、明神造りの本殿、古神道の神学「神は火水なり」を具現化した火祥・水祥の両殿、神池に浮かぶ舞台能などが建っている。
 特に、池の上に浮かぶ能楽殿は日本随一の能舞台と言われ、年1回の演能には一流の演者が立つという。身曾岐神社は、古神道の精神と秘儀を受け継ぐ神社である。
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2008/5/15


薪能 Takigi-nou 

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 薪能(たきぎのう)は、室町文化の華といわれる「能」の一種で、主として夏場の夜間において能楽堂や野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚き、そこで特に選ばれた演目を演じるものである。
 その起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催された薪を奉納する神事が最初とされ、室町時代に入って「薪能」と呼ばれるようになった。
 現在の薪能は、復活した興福寺薪能を元に、昭和二五(1950)年に平安神宮で開催された京都薪能がルーツとされ、以降、主に自治体主催の夏の風物詩として、全国各地に広まっていったとされている。
 薪能においては、舞台設定は特に重要視される。屋外で行われることが多いことや照明は篝火のみということもあり、火の強さや、焚かれて浮かび上がる背景も舞台の一つとして捉えられ、周囲建造物なども借景として利用される。
 暗い静寂の中、篝火の灯下で繰り広げられる自然と能楽の調和は、見るものを幽玄の世界へと誘い出してくれるだろう。
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2008/2/1


世阿弥 Zeami Zeami

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 世阿弥(ぜあみ)は、室町時代初期の猿楽師である。実名は、元清。
 貞治二(1363)年、大和猿楽の有力な役者であった観阿弥の子として生まれる。幼名は、鬼夜叉。通称は三郎。
 12歳の時、観阿弥が今熊野で行った猿楽能に出演し、当時18歳の3代将軍足利義満に気にいられ、以後庇護を受ける。連歌師でもあった摂政二条良基から藤若という名を賜るなど、武家や貴族の文化に触れつつ自らの美意識を昇華させ、父観阿弥とともに能を大成させた。父の死後、観世太夫を受け継ぐ。世阿弥という名は、仏教の教派の一つである時宗の法名である世阿弥陀仏からきている。
 『風姿花伝』『花鏡』など多くの伝書を残し、「秘すれば花」に代表される美学は、600年を経た今でも鮮烈な輝きをもっている。
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2007/12/28


小沢式三番 Ozawa-shikisanba 

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 桧原村小沢地区に古来より伝わる「小沢式三番(おざわしきさんば)」は、鎮守である伊勢清峯神社(いせせいほうじんじゃ)の秋の例祭に行われる神事で、能の「翁」を歌舞伎舞踊化したものだという。関東に伝わる式三番は小沢地区の他にはニヶ所のみで、珍しい神事である。
 この歴史は古く、約三〇〇年前に一度途絶えたとされるが、甲州郡内地方から師匠を頼んで復活させたとされる。現存する翁の衣裳には明和七(1770)年八月吉日の日付が、面箱蓋には安永三(1774)年という年号がそれぞれ銘記されている。
 神事を行うに当たって、三役は別火斎戒(べっかさいかい)という、食事など全ての事を女性の手を借りずに自ら行って、一週間身を清める慣習が今も残っているという。
 五穀豊穣などを祈願するこの古式ゆかしい神事は、都の無形民俗文化財の指定を受け、地元の若者衆たちによって今も伝えられている。
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2007/12/26


能楽 Nougaku 

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 伝統的な演劇である「能」「狂言」「式三番(しきさんばん)」の三種を総称して「能楽(のうがく)」という。室町時代より600年以上、演じ受け継がれてきた日本を代表する舞台芸術で、言葉や節回しは室町時代の様式を今に残している。
 能楽の源流を辿ると奈良時代まで遡るが、大陸から伝わってきた「散楽」という民間芸能が「猿楽/申楽(さるがく、さるごう)」と呼ばれる様になり、鎌倉時代の中期頃には俳優である「シテ」の歌や舞いを中心に、相手役の「ワキ方」、伴奏である地謡(じうたい)や囃子を行う「囃子方」、「狂言方」などで構成された音楽劇へと発展していった。
 その後、小面(こおもて)や翁などの能面を使用する「能」や、時代と共に様々な世相をとらえて風刺する台詞劇の「狂言」へと戯曲や演劇技法、出演者と細かな区別がされていき、現代に至っている。
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2007/10/23


長唄 Naga-uta 

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 長唄(ながうた)は、江戸で歌舞伎音楽として発達した三味線音楽の一種で、劇場に結びついて主に歌舞伎の舞踊の伴奏をつとめた。
 初代・中村勘三郎の弟の杵屋勘五郎(1615~1699)により始められたとされ、語り物である義太夫や清元に比べて、音楽性が高い。
 浄瑠璃の影響を受け、語り物の要素もあり、伴奏には三味線のほかに囃子も加わる。長唄の囃子は能の囃子に用いられる楽器をそのまま流用し、笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。
 のちには、歌舞伎に関係なく作曲されるようにもなった。
 長唄は明るい声で歌われるので、それに合わせて三味線も軽やかな音色で演奏される。
 代表曲として、「勧進帳」「京鹿子娘道成寺」「越後獅子」「藤娘」「連獅子」などがある。
 長唄は、歌舞伎の伴奏として発展した伝統芸能である。
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