NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


愛知 如庵(国宝) Aichi Joan(Kokuhou) 

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 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市にある庭園「有楽苑」内にある茶室である。
 元和四(1618)年に織田信長の実弟である織田有楽斎により、京都市にある建仁寺の塔頭(たっちゅう)である正伝院が再興された際、建造された茶室だ。
 明治四一(1908)年に東京の三井本邸に移築されたが、その後、一旦神奈川に移ってから昭和四七(1972)年に現在地に移築され、今に至っている。
 京都府にある妙喜庵・待庵(たいあん)と大徳寺龍光院・蜜庵(みったん)とならび「三名席」とも称され、国宝指定されている三席の茶室の一つとなっている。
 柿(こけら)葺き入母屋風の妻を正面に向けた二畳半台目向切の茶室で、内部には足元に三角形の板畳である「鱗板」を敷き、有楽窓と呼ばれる窓や斜めの壁と中柱の構えなど、随所に様々な工夫が凝らされており、千利休の独創性あふれる待庵ともまた違った、端正な佇まいを見せている。
 毎年の三月と十一月には一般公開されており、今も多くの人が訪れている。
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2008/5/1


杣山城 Somayama-jou 

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 福井県南条郡南越前町の南東に位置する標高四九二mの杣山(そまやま)は、気軽なハイキング向けの山として親しまれているが、道は急でやや険しい。
 この山頂に、鎌倉時代、杣山庄の地頭であった瓜生氏(うりううじ)が築城した杣山城がある。現在でも山全体が城址として残されている。
 南北朝時代、斯波高経(しばたかつね)らに攻められた新田義貞と弟の脇屋義助は、金ヶ崎城から杣山城へと逃げ込み、城は当主瓜生保(うりうたもつ)を中心とした南朝方の拠点となり、北朝方と戦ったとされる。
 義貞の内室、勾当内侍が一時隠れていたという姫穴や、当主の戦死の知らせ聞いて女達が飛び降り自害したという、袿掛岩(うちかけいわ)なども残されており、山を上ると気分は中世へといざなわれる。
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金ヶ崎城(敦賀城) Kanegasaki-jou(Tsuruga-jou) 

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 敦賀城(つるがじょう)という別名を持つ金ヶ崎城(かねがさきじょう)は、敦賀湾に突き出した小高い金ヶ崎山に築城された。
 源平時代、木曾義仲との戦いに備えるために、平通盛(たいらのみちもり)が築いたとされる。
 南北時代の武将新田義貞(にったよしさだ)が尊良・恒良親王と嫡男義顕、弟の脇屋義助らと共に入城し、斯波高経(しばたかつね)率いる軍に攻められ大激戦の末破られたが、再度奪還したことでも知られている。
 落城の際には尊良親王と子の義顕は共に自害したとされ、その親王自刀の地というのが残されている。また城址の麓には金ヶ崎宮が建てられ、両親王が祀られている。
 元亀元(1570)年、織田信長の朝倉景恒(あさくらかげつね)を下した「金ヶ崎の退き口」もまた有名である。
 数々の激戦の舞台となった城は、昭和九(1934)年に国の史跡指定を受け、現在も大切に整備されている。
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2007/11/14


越前大野 旧内山家 Echizen-oono Kyuu-Uchiyama-ke 

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 越前大野の旧内山家(きゅううちやまけ)は、福井県大野市城町にある建築物である。
 幕末に大野藩の藩政改革に尽力した家老・内山七郎右衛門良休(うちやましちろううえもんりょうきゅう)は、藩営の商店を開業したり、銅山経営で手腕を発揮して多額の借金に苦しんでいた藩財政を立て直した人物である。
 旧内山家は、良休と弟の隆佐良隆の屋敷を復元したもので、母屋は明治一五(1882)年ごろ建築された梁間4間、桁行7間の平入り2階建てとなっており、屋根は現在は瓦葺だが、元は板葺であったとされる。
 天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられた造りが興味深く、他に数奇屋風書院の離れや衣装蔵、米蔵、味噌蔵と広い庭が存在する。
 越前大野の旧内山家は、当時の武士の暮らしが伺える、貴重な武家屋敷である。
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2007/10/23


長唄 Naga-uta 

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 長唄(ながうた)は、江戸で歌舞伎音楽として発達した三味線音楽の一種で、劇場に結びついて主に歌舞伎の舞踊の伴奏をつとめた。
 初代・中村勘三郎の弟の杵屋勘五郎(1615~1699)により始められたとされ、語り物である義太夫や清元に比べて、音楽性が高い。
 浄瑠璃の影響を受け、語り物の要素もあり、伴奏には三味線のほかに囃子も加わる。長唄の囃子は能の囃子に用いられる楽器をそのまま流用し、笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。
 のちには、歌舞伎に関係なく作曲されるようにもなった。
 長唄は明るい声で歌われるので、それに合わせて三味線も軽やかな音色で演奏される。
 代表曲として、「勧進帳」「京鹿子娘道成寺」「越後獅子」「藤娘」「連獅子」などがある。
 長唄は、歌舞伎の伴奏として発展した伝統芸能である。
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2007/6/26


松前 法華寺 Matsumae Hokke-ji 

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 法華寺は、400年の歴史を持つ名刹。北海道松前郡松前町に所在する。
 開基については諸説あるが、正応四(1291)年に日蓮の六門弟の日持上人が海外布教のため渡道した折り上ノ国に一宇を建立したのを、享徳二(1453)年、京都本満寺の僧侶・日尋が松前に移して法華寺と名づけたという説が有力である。
 当寺に安置されている「木造日蓮聖人坐像」は鎌倉時代の作と言われており、北海道の有形文化財に指定されている。また、本堂の7メートル四方の天井に描かれた「八方睨みの龍」は、日本文人画の第一人者、池大雅の作と伝えられている。松前藩主の弟・廣長の念願で招かれた池大雅が寺の裏の林で見た大蛇にヒントを得て描き上げた大作で、どこから見ても龍から睨まれているように見える迫力ある絵である。
 境内には風格のある枝垂桜があり、海を背景とした構図は素晴らしく、見ごろの5月には花見がてら訪れる参拝客で賑う。
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2007/6/21


尾形光琳 Ogata Kourin Ogata Korin

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 江戸時代の画家、工芸家。万治元(1658)年-享保元(1716)年六月二日(7月20日)
 京都の呉服商雁金屋の次男として生まれた。
 光琳三〇歳の頃、父が亡くなった。この頃には雁金屋の経営は破綻していたが、元々遊び人だった光琳は遊興三昧の日々を続け、経済的困窮が一因で、元禄一四(1701)年頃画業を始めた。
 光琳は公家、大名、役人等に多くのパトロンを持っており、ニ条家にも出入りしていたとされる。
 宝永元(1704)年頃、京の役人であった中村内蔵助が江戸詰となり、頼りに江戸へ下った。江戸でも大名や豪商等のパトロンがいたが、宝永六(1709)年には京都に戻った。
 作品は、大画面の屏風、香包、扇面、団扇、手描きの小袖、蒔絵、実弟の尾形乾山の作った陶器への絵付け等、さまざまな作品を残した。特徴として、大体な構図や独特のリズム感、華やかな画面構成は「琳派」と呼ばれる画派の代表的画家とされ光琳模様という言葉を生んだ。
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2007/4/23


万徳院跡 Mantokuin-ato Mantokuin Temple Ruins

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万徳院跡は、広島県山県郡北広島町に所在する国指定史跡である。
 かつて万徳院は、戦国時代から安土桃山時代にかけてこの地域(安芸)に勢力を誇っていた吉川元長(きっかわもとなが・毛利元就の孫)が天正三(1575)年頃に建立した寺院。武人としての自らの罪を払い、死後に菩提寺にするために建てたとされる。
 当初は山中にひっそりと建つ小さな別邸だったが、元長の死後、弟の広家が菩提寺として相応しいよう参道や石垣、建物の増築など、大改修を行った。しかし関が原の合戦後、慶長五(1600)年に吉川氏が現在の山口県(岩国藩)に移されると、それに伴い万徳院も建物ごと移築された。岩国万徳院は吉川氏の菩提寺となり、安芸の万徳院は放置され跡だけが残った。
 現在は当時の建物の外観をモデルに建物を原寸大に再現した歴史公園「ガイダンスホール青松」として生まれ変わり、歴史の教科書的存在として近隣の人々に親しまれている。
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