NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/23


帆布竹刀袋 Hanpu-shinai-fukuro 

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 この帆布竹刀袋は、国産の8号帆布と天然皮革で創ったフリーサイズの2本入竹刀袋である。
 帆布は厚手の綿織物で、帆船の帆やテントなど、様々な用途で使用されている。張りがあり丈夫で、天然素材のため、風を良く通し中の物が蒸れない。
 使っているうちに柔らかくなり、馴染むと味が出てくるのが特徴で、時間が経つに連れて新品の時とは違った風合いになる。
 32や34など短い竹刀の場合、上部を折り曲げて固定する、小学生から大人まで使える竹刀袋で、素早く開閉できるマジックテープ式は便利であり、ファスナーをスッと開ければ誰でもスムーズに竹刀を取り出せる。
 鍔・鍔止めは上部ポケットに収納されており、背負い紐は長さを無段階調節できる。木刀の持ち運びにも便利な革ベルトと足元ポケット付。
 帆布竹刀袋は、丈夫で使うほどに味の出る、便利な竹刀袋である。
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2008/7/15


帆布 Hanpu 

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 「帆布(はんぷ)」とは、その名の通り帆船の帆に使われる丈夫な綿布のことである。
 綿100%でつくられている平織りの厚い生地は、酒屋のまえかけなどに古くから使用されている。
 綿花が本格的に日本に到来したのは室町時代のことで、最初に確認された帆布は、織田信長の帆船だといわれている。
 明治に入ると、帆布は鉄道貨物のシート、テントといったものから、職人がお酒や醤油つくりの際に用いる腰布や、職人が持つ道具袋、牛乳配達袋、学生の鞄など、あらゆる用途に用いられた。生地の丈夫さを活かし、産業生活資材として様々な商品が大量に生産された。
 代表的な産地として知られているのが、岡山県倉敷市である。時代の流れと共に需要は減少したが、今でも倉敷は数少ない帆布の産地として、国産帆布の約7割を生産している。
 現在では産業資材としてトラックの幌、コンベアベルトの基布などがつくられ、生活関連品ではトートバックや拳法着、エプロン、シューズなどがつくられている。
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2008/4/9


朝日焼 Asahi-yaki 

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 朝日焼(あさひやき)は、京都府宇治市で焼かれる陶器を指す。この地では、古墳時代から焼きものが焼かれていた。室町時代に宇治茶の栽培が盛んになると、茶の湯向けの国産陶器が焼かれるようになり、これが朝日焼の原型ではないかといわれている。
 朝日焼の初代作陶は慶長年間(1596~1615)に宇治川のほとり、朝日山麓で開窯したと伝えられ、二代目の時に遠州七窯の一つに数えられるようになった。その後、苦しい時代を乗り越え、江戸末期には早くから御所への出入りを許され、全盛期を迎えた。伝統の窯と技は代々受け継がれ、今日に至っている。
 朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。師匠が焼いたものという意味の赤い粗めの斑点が表面に浮き出たような器を「燔師(はんし)」、燔師とは対照的に鹿の背中を思わせるきめ細かな斑点が見られる器を「鹿背(かせ)」、鹿背の中でも特に鉄分が多くよりくっきりと紅色が見える器を「紅鹿背(べにかせ)」と呼んで区別している。
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2007/12/10


寛永通宝 Kaneitsuuhou 

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 寛永通宝(かんえいつうほう)は、江戸時代を通じて広く流通していた銭貨である。
 徳川幕府は、開府当初から貨幣の統一に着手し、慶長六(1601)年、金貨銀貨の制度を整えた。しかし、銭貨は中世以来の渡来銭がそのまま使われていた。
 寛永一三(1636)年、銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始した。
 幕藩体制の確立と共に全国に普及し、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。
 形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されており、材質は銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。
 寛永通宝は、銭形平次が劇中で投げる事でも知られる、江戸時代を通して最も一般的な銭貨である。
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2007/11/29


うんすんかるた Unsun-karuta Unsun Card Game

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 「うんすんかるた」は室町時代にポルトガルの船員から伝わった南蛮カルタ、すなわちトランプを日本で作りかえたカルタのことである。
 もともとは、天正年間(1573~91)に、南蛮かるたを模して初めて国産のカルタが作られる。福岡県大牟田市三池でのことで、これが「天正かるた」である。江戸時代に入るとこの天正かるたが発展し、「うんすんかるた」が作られたのである。
 天正かるたは48枚なのに対して「うんすんかるた」は75枚もあり、ゲームの内容も複雑であった。名前の由来はポルトガル語で、「ウン」は一番、「スン」は最高という意味からきているらしい。
 うんすんかるたは流行するにつけて賭博性も強くなり、江戸時代中期には禁止令までだされた。その後、途絶えたと思われていたが、熊本県の人吉地方で遊び継がれていた。
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2007/5/15


ゆかた地アロハシャツ YukatagiArohashatsu Wagara-Yukataji Aloha Shirts

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 「KANTARO、S 勘太郎商店」が開発、デザイン、販売する、国産高級ゆかた生地を使用したアロハシャツ。店主の藤井毅さんの命名だ。和のテイストとハイカラさが幸せな形で融合しているばかりでなくねそのディテールは手抜きがない。
 ゆかたとして市販されている生地の幅が40センチ程度なので、背布にはぎがほどこされ、動きやすく、また涼しくなるよう背タック(2ヶ所)がとられている。ボタンは天然素材、主に竹製のものを使用。胸囲、胴囲、袖幅、袖付はゆったり。袖は袖山ではぎ、ステッチを入れてある。
 販売するまで、試作品をいろんな体型の人に着てもらい、試行錯誤を繰り返したという。「少々お腹の出た方でも前が上がって見えないように工夫し、ポケット柄は合わせてあります」と、藤井さんが解説するように、スタイルをカバーする心憎い配慮も気が利いている。
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2007/2/23


花札 Hana-fuda 

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 日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代である。
 宣教師が伝えたとされており、日本のかるたの語源は、ポルトガル語のcartaからきている。
 天正時代(1573〜91)には既に国産のかるたが作られ、賭博として流行した。以後、為政者が禁止してはデザインを変え、禁止される度にデザインを変え、次々と新しいゲームが作られた。
 花札は、その過程で生まれた。花かるたとも呼ばれ、12ヶ月×4枚の48枚1組となっている。
 こいこい、花合わせ、八八といった遊び方が一般的であるが、地方カード、地方ルールも数多く存在する。
 花札は李氏朝鮮に渡り、韓国にも流入し、花闘(ファトゥ)と呼ばれ人気になっている。
 花札は、日本独自の伝統的カードゲームであり、今でも広く人々に愛好されている。
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2007/1/12


木部弘 Hiroshi Kibe Hiroshi Kibe

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 1931年、東京都浅草橋生まれ。江戸からかみの伝統工芸士。
 からかみの歴史は、平安中期、中国産唐紙の模造から始まる。後に江戸にて、捺染摺りや刷毛引き、砂子振りの技法を多く用いた江戸からかみが生まれた。
 1650年、父の仕事を継ぐため、からかみの捺染加工の仕事に従事する。
 氏の作品の中で特に素晴らしいのが、色とりどりの花鳥、人物などの更沙模様を襖面一杯に貼り込んだからかみである。
 「この仕事は名人も下手もありません。ただ丁寧にやることと、使う人の気持ちになって仕事をすることが大切です。襖は一枚だけでなく何枚も並ぶので、一枚一枚が同じように仕上がり、しかも味があるように心がけています」とは、氏の言葉。
東京都伝統工芸士。1997年、葛飾区伝統工芸士に選定される。
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