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2008/5/19


大川原火流し Ookawara-hinagashi 

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 大川原火流し(おおかわらひながし)は、青森県黒石市大川原にて毎年八月一六日に行われている祭りである。
 南北朝時代、南朝側の後醍醐天皇の第3皇子・宗良親王(むねよししんのう・1311~1385)が北朝側との戦に敗れ、その子孫が大川原に流れ着き、戦による死者の霊を慰める為、火を焚き川に流して慰霊した事が始まりとされる。
 帆柱に火を放った藁で作った約2mの3隻の船が、奔流に揉まれる中、舟子と呼ばれる若者たち数名が舟を川に押し出し、ズブ濡れになりながら曳く。
 怒号と清澄な囃子が何とも言えぬ風情を醸し出す中、500mほど下流の大川原橋まで流すその様子は、その年の豊凶を占う意味があり、600年以上もの間、休む事なく行われている。
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2007/10/31


如意輪寺 Nyoirin-ji Nyoirinji Temple

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 如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある浄土宗の寺である。
 延喜年間(901〜923)、文章博士三善清行の子で、日蔵道賢上人の草創とされる。本尊は如意輪観音。
 1336年、南北朝の戦いに敗れて吉野に行宮を定めた後醍醐天皇の勅願所となった。
 後醍醐天皇の没後、楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣する前に、やじりで堂の扉に辞世の歌を刻んだことでも知られている。
 慶安3(1650)年、文誉鉄牛上人が来て、本堂を再興し、真言宗を改めて浄土宗となった。
 如意輪寺には、南朝時代の寺宝や忿怒の姿を表した蔵王権現像、日本最大の寝拝観音「ねおがみ観音」など、歴史的に貴重な品が数多く展示されている。
 如意輪寺は、そこにいるだけで歴史を体感出来る、伝統の寺院である。
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霊亀山 天龍寺 Reikizan Tenryuu-ji 

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 霊亀山天龍寺(れいきざんてんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派の大本山で、本尊は釈迦如来である。
 暦応二(1339)年、後醍醐天皇が崩御したとき、その菩提を弔うため、夢窓疎石(むそうそせき)が足利尊氏に進言し、創建された寺である。
 至徳三(1386)年に、京都五山の第一位を占め、大いに繁栄したが、度々の火災により堂宇を焼失してしまった。現在の諸堂は、明治以後に再建されたものである。
 大方丈前にある夢窓疎石がつくった池泉回遊式庭園は、室町様式を現在に伝える上で重要な役割をしており、国の特別史跡名勝の第一号に指定された。平成六(1994)年に世界文化遺産に登録された。
 標高三七五メートルある嵐山は、元は天龍寺の境内であった。後醍醐天皇の霊を慰め、吉野より多数の桜が移植されたことから、今では全国的に有名な桜の名所となっている。
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2007/10/1


足助神社 Asuke-jinja Asuke Shrine

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 愛知県東加茂郡足助町には二つの神社が並んでいる。大きいほうが足助八幡宮(あすけはちまんぐう)と呼ばれ、白鳳三(652)年に創建された由緒ある古い神社である。
 寄り添うように隣に立てられた足助神社(あすけじんじゃ)は明治三五(1902)年に創建された比較的新しい神社である。
 足助神社に祀られているのは、元弘の変の時に後醍醐天皇の味方となり、京都の笠置山に篭城した足助次郎重範という軍の総大将だった人物である。最後は捕らえられ、六条河原で斬首となったが、敵軍からは勇猛果敢、弓の名手として恐れられた。
 そのためか、足助町は弓道の盛んな土地柄でもある。
 足助神社の鳥居脇には、誤ってガンを射たことから出家した久右衛門という人物の辞世の句「先立ちし雁や浄土の道しるべ」が書かれた「雁塚」が建てられている。
 
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平勝寺 Heishou-ji Heishoji Temple

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 平勝寺(へいしょうじ)は愛知県東加茂郡足助町綾渡奥にある曹洞宗の寺院である。
 元和元(1616)年に書かれた「略縁起」では聖徳太子が開いた寺と記されており、その当時は檀独山大悲密院と称され、天台宗の寺院であった。
 その後、後醍醐天皇の第三皇子である平勝親王が、戦勝祈願のためこの寺を訪れ、その後、平勝寺と呼ばれるようになった。
 寺に安置されている木造観音菩薩坐像は平治元(1159)年に造られたものである。像は桧の寄木造で、胎内には墨書銘が残されており、国の重要文化財に指定されている。
 一七年に一回のご開帳という秘仏である。
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2007/9/25


黒木御所跡 Kuroki-gosho-ato The Ruins of Kuroki Palace

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 黒木御所跡(くろきごしょあと)は、島根県隠岐郡西ノ島町別府にある後醍醐天皇の行在所跡(あんざいしょあと)と言われている場所である。
 元弘二(1332)年、二度の元寇(げんこう)によって力の衰えた鎌倉幕府への倒幕挙兵である元弘の変に失敗し、隠岐に配流となった後醍醐天皇の行在所と伝えられる。
 島前・西ノ島町の別府港に臨む天皇山という小高い頂きにあり、県の史跡に指定されている。
 その後、天皇は在島一年たらずで隠岐を脱出し倒幕に成功、建武の中興と呼ばれる親政を行った。
 天皇山の入口には資料館の碧風館(へきふうかん)があり、天皇に関する資料、伝承にまつわる文書、絵画などが展示されている。
 山頂には、天皇を祭る黒木神社と行在所跡の碑が存在する。
 黒木御所跡は、後醍醐天皇の不遇時代を偲ばせる史跡である。
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2007/8/27


生品神社 Ikushina-jinjya Ikushina Shrine

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 生品神社(いくしなじんじゃ)は、群馬県太田市新田市野井町にある神社である。祭神は、大穴牟遅神、品陀和気命、建御名方神。
 平安時代の神名帳に記載されているが、創祀年代は不明である。
 元弘三(1333)年5月8日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる。
 境内には社殿の他、義貞像、義貞旗揚げ塚、床几塚、旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木の神木、記念碑等、義貞にまつわるものが多々存在する。
 義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日には例祭として鏑矢祭が行なわれる。
 古くは生階と称し、太田市内に多くある同名の神社の本宮であり、古来より崇敬が篤い。
 生品神社は、忠臣新田義貞にゆかりある古社である。
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2007/6/29


丹後藤布 Tangofujifu Tango Fujifu (Tango Wisteria Cloth)

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 5月の中頃、山々を美しく彩る藤の花。その藤のつるから取り出した繊維を紡いで織り上げるのが「藤布」だ。丹後地方においては、山間部を中心に1200年以上織り継がれてきた技術であり、京都府指定伝統工芸品にもなっている。
 藤布の歴史は古く、万葉集の中にも「大君の塩焼く海人の藤衣」と、藤布が着用されていたことが詠まれている。また、元弘2(1333)年、鎌倉幕府によって隠岐の島に流された後醍醐天皇が藤の苗木を隠岐に持参されたという逸話もあり、藤を愛した天皇が藤布を身にまとい、都を懐かしんだとも語られている。
 かつては全国各地で庶民の衣料として生産されていたが、今では衣料の他にのれんやタペストリー、帯など装いからインテリアまで多彩な商品が作られ、伝統を現代に活かす取り組みが行われている。
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