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2008/9/5


播州三木打刃物 Bansyuumiki-uchihamono 

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 播州三木打(ばんしゅうみきうち)刃物は、兵庫県三木市で生産される金工品で、主な製品に鋸(のこぎり)、のみ、鉋(かんな)、小刀などがある。平成八(1996)年四月、通商産業大臣(現経済産業大臣)から伝統的工芸品の指定を受けた。
 播磨地方は播磨国風土記にも記述が見られるように、製鉄・鍛冶の神である天目一箇命(あめのまひとつのかみ)ゆかりの地で、古代より大和鍛冶が盛んだった。さらに五世紀頃、百済より韓鍛冶の技術が渡来して三木鍛冶の礎となった。一六世紀末、羽柴秀吉の三木城攻めによって町が破壊されると、その復興のため各地から大工が集まり、大工道具の需要が一気に増えたことによって、播州三木打刃物は発展を遂げた。
 材料には鉄や炭素こうを用い、主な技法として、つち打ち、焼き入れ、ひずみ取りがある。現在は十数名の伝統工芸士が、この手作りの技を守り伝えている。
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2008/9/1


百済寺 三重塔 Kudara-ji Sanjuu-no-tou 

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 奈良県北葛城郡広陵町にある百済寺(くだらじ)の創建の時期、経緯等は明らかでない。寺は三重塔と小さな本堂を残すのみである。
 塔は鎌倉時代中期に建立され、高さ22.9メートル、本瓦葺である。長い相輪を持つ。三手先(みてさき)、二層の繁垂木(しげたるき)を用い、がっしりと軒を支えている。軒先の四方には牙を出したかわいらしい鬼瓦(おにがわら)が据えてある。
 塔の内部は四天柱と来迎壁(らいごうへき)があり、須弥壇(しゅみだん)という大型の壇に、金剛界大日如来像を安置する。明治三九(1906)年に県の重要文化財に指定されている。
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2008/7/11


七支刀(しちしとう/ななつさやのたち) Shichishitou-nanatsusayanotachi 

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 七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)は、奈良県天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)にある全長74.8cmの鉄剣である。国宝に指定されている。
 石上神宮は、崇神天皇七(紀元前91)年の創祠とされる古社で、祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。
 七支刀は、六叉の鉾(ろくさのほこ)の名で石上神宮に伝世されてきた鉄剣で、表裏に金象嵌(きんぞうがん)の文字が61ある。
 表の銘文冒頭に泰和四年とあり、これは日本では仁徳天皇五七(369)年にあたるとされる。
 この剣は現在、日本書紀に記されている、神功皇后が朝鮮・百済から献上された七枝刀にあたると考えられている。
 銘文については腐食が激しく、読み取れない字も多くあり、その内容には諸説あるとされている。
 七支刀は、祭祀的な象徴であったとも推測される古代の剣である。
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2008/5/1


鬼ノ城址 kino-joushi 

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 鬼ノ城址(きのじょうせき)は、岡山県総社市奥坂にある城跡である。
 築城の時期については諸説あるが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した、天智天皇二(663)年の白村江の海戦において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城のひとつと考えられている。
 吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山に築かれた山城で、全周約2.8kmの城壁が築かれ、城門が4ヶ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所存在していた。
 快晴時には、瀬戸内から遠く四国の山並みも望見される眺望絶景の地で、現在は公園として整備されており、角楼や西門を復元し、城壁に沿って遊歩道が整備され、ハイキングコースとしても脚光をあびている。
 鬼ノ城址は、長い歴史を誇る古代山城跡である。
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2008/4/15


瓦 Kawara Kawara Roofing Tile

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 瓦(かわら)は、粘土を練って成形、焼成した屋根に葺く陶器製建材である。
 瓦が歴史上、初めて登場するのは約二千八百年前の中国といわれており、日本には崇峻天皇元(588)年、百済から仏教と共に伝来し、飛鳥寺造営の際、初めて使用されたとされる。
 当時は瓦葺が許された建物は寺院のみであったが、奈良時代に入るとその他の建物でも使用されるようになる。
 江戸時代には新しい瓦の構造が発明され、また、火事対策の耐火建築用品として瓦の使用が奨励されたこともあり、一般に広く普及していくこととなった。
 日本では大きく分けて釉薬を使った「釉薬瓦」と、燻して銀色の炭素膜を形成した「いぶし瓦」に二分されるが、形状については多種多様なものが存在しており、分類すると千を越える種類が存在している。
 現在では、愛知の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が三大産地として知られており、日本家屋における屋根の代表格の座を支え続けている。
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2008/2/18


金剛輪寺 三重塔 Kongourin-ji Sanjuu-no-tou 

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 金剛輪寺(こんごうりんじ)は、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝えられ、本尊は聖観音である。
 金剛輪寺は、西明寺や百済寺とならんで「湖東三山(ことうさんざん)」の一つに数えられ、南北に連なる三山の真ん中に位置している。
 国の重要文化財に指定されている三重塔は、本堂の左手(北側)の小高いところに建っている。
 この寺は天台宗であり、最澄の比叡山延暦寺を総本山とする。そのため天正元(1573)年に織田信長の兵火にあった。被害は受けたものの、本堂と三重塔は焼失をまぬがれた。総門や本坊のある地点から石段を上った奥にあるため見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのでないかと言われている。
 この塔は江戸時代に寺院の衰退に伴い破損し、明治時代には三重を失い初重と二重の軸部だけが残った。昭和五〇(1975)年から三年かけて以前の三重塔に復元された。
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2007/11/12


鬼室神社 Kishitsu-jinja Kishitsu Shrine

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 鬼室神社(きしつじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町小野にある神社である。祭神は、鬼室集斯(きしつしゅうし)。
 鬼室集斯は、斉明天皇六(660)年、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済を復興すべく戦った鬼室福信(ふくしん)の子供である。
 百済国復興運動に失敗後、渡来した百済人であり、優れた文化人であったと言われている。
 集斯は時の天智天皇に重用され、男女700余人とともに蒲生郡に移り住んだ。
 神社の本殿裏の石祠に鬼室集斯が葬られ、祀られているところから、永享元(1429)年、この名称で創建されたとされる。
 古くは不動堂と言い、小野村の西の宮として江戸期まで崇敬された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきた。
 鬼室神社は、朝鮮渡来の亡命貴族を祀る古から続く社である。
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2007/10/31


西琳寺 Sairin-ji Sairinji Temple

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 西琳寺は、大阪府羽曳野市古市にある高野山真言宗の寺院である。本尊は薬師如来立像。
 欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺を起源とし、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基したとされる。
 出土品の瓦などから、飛鳥時代の創建が裏付けられているが、境内の庭に置かれた高さ2メートル近い塔礎石は重量27トンを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。また、当時の伽藍の資材について記された資料では、679年には七堂伽藍が完成し、743年まで七堂伽藍を揃えていた事が確認されているが、戦国時代の兵火と明治の廃仏毀釈により堂塔のほぼ全てを喪失した。
 河内飛鳥七福神の1つに数えられ、風折烏帽子に狩衣、釣竿を肩にかけ、こわきに鯛をかかえた姿の恵比寿神も祀られている。
 西琳寺は、長い歴史と伝説を持つ、古代寺院である。
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