NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2008/1/24


黒貫寺 Kuronuki-dera 

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 黒貫寺(くろぬきでら)は宮崎県西都市にある寺である、正式名称は真言宗智山派黒貫寺。
 天慶九(946)年に真言宗の名僧である隆元によって建立された。また遡って、クマソ征伐の折にはヤマトタケルと景行天皇が訪れ、滞在した場所といわれる。
 南北朝時代に伊豆から現地に赴いた伊東氏 が都於郡(とのこおり)を治めていた時代には日向第一の寺院として栄え、その後も島津家の加護を受け江戸時代まで隆盛を誇っていた。
 境内の観音堂には大日如来坐像、聖観音坐像、薬師如来立像の三体が祀られている。明治七(1874)年に火災によって山門を残しすべて焼失し、現在残る観音堂は末寺である久峰(ひさみね)寺の観音堂を移築したものである。また、佐土原町西上那珂の平等寺にあった木造の仁王像がある。
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2007/12/14


花尾神社 Hanao-jinja 

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 花尾神社(はなおじんじゃ)は鹿児島市花尾町にある島津藩所縁の神社。国道を少し離れた田園風景の中に朱塗りの赤い鳥居が立ち、杉の林へ参道が伸びている。
 島津氏初代・島津忠久は源頼朝と丹後局の間に生まれた子という伝説がある。この神社は忠久が薩摩・大隅・日向の三州の守護職に任ぜられた際に御堂を建て、頼朝尊像を安置、創建した。
 現在残る社殿は正徳三(1713)年建立のもの。幣殿や向拝に、鶴と松、牡丹と唐獅子、様々な花や長い牙をもつ象など、明るい色彩の細かな彫刻と装飾がある。さつま日光とも称されており、いつまでも見ていたくなる様な風情だ。
 天井絵は401枚の彩色による精密な草花の写生絵が見られる。嘉永六(1853)年狩野派の絵師・能勢一清が描いたとされているが、現存している絵がそうであるかは定かではない。
 社殿の横には丹後局の墓、御苔石があり、安産・子授のお守りに石の苔を持ちかえる人が多い。
 昭和五五(1980)年に県の有形文化財となっている。
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2007/11/29


神代独楽 Jindai-goma 

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 神代独楽(じんだいごま)は宮崎市佐土原町を城下としていた島津佐土原藩で古くから作られていた郷土玩具である。江戸時代には武士の内職として作られたという。
 武家の子弟の玩具として愛好され、後に魔よけとして端午の節句の贈り物にもなった。また、参勤交代の折には日向地方の土産として欠かせないものとなっていたともいわれる。
 独楽は真竹を筒状に切断し、ヒノキの板を筒に合わせて切り、竹の棒を通したものである。胴体にうなり窓、または風切り窓と呼ばれる仕掛けがあり、まわすとブーンという大きな音を出す、日本に最初に入った独楽と同じ形であるため、古形鳴り独楽とかブンコマとも呼ばれている。松の煙をいぶして黒に近い暗褐色に色付けがされており、独特の光沢を持っている。
 神代独楽には島津家の家紋である丸に十の字が描かれている。
 独楽作りの技術と伝統は現在でも受け継がれており、神代独楽は宮崎県が誇る郷土玩具の一つである。
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宮崎手漉和紙 Miyazaki-tesuki-washi 

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 宮崎手漉和紙(みやざきてすきわし)は江戸時代から受け継がれた独自の工法を持ち、一枚一枚丹念に手で漉いて作られる貴重な和紙である。
 特に宮崎県日向にあった高鍋藩では紙の原料である楮(こうぞ)や三椏(みつまた)が多く群生し、美しくおだやかな石並川の流れが楮をさらすのに適していたため、藩の奨励産物として手厚く保護され続け、和紙は藩の重要な産物となっていた。
 宮崎手漉和紙の特徴としては、手作りの温かさ、独特の柔らかい手触りと、同時に強さを兼ね備えている。現在でも宮崎手漉和紙は便箋もとより凧、お面など色々な工芸品の材料としても使用されている。
 昭和六〇年には宮崎県伝統工芸品の指定を受けている。
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日向剣道防具 Hyuuga-kendou-bougu 

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 日向剣道防具(ひゅうがけんどうぼうぐ)は宮崎県が誇る伝統工芸品の一つである。
 剣道防具の詳細は面、胴、甲手(こて)、垂(たれ)である。江戸時代中期に日向でも製造されるようになった。
 このことは剣道にも変化を与え、それまで「型」中心の稽古であったのが、以後は「竹刀打ち」の稽古へと変わっていった。
 日向剣道防具はすべてが手造りであり、多くの手の込んだ作業が必要である、また、同時に高い耐久性と優れた機能性が常に要求され、特に面作りと甲手作りには細心の心と高度な熟練の技が必要とされている。現在では日向剣道防具は伝統工芸としても国内だけでなく海外からも高い評価を得ている。
 現在でも日向剣道防具は全国一の出荷量を誇っている。
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2007/11/5


日豊海岸 Nippou-kaigan Nippo Coast

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 日豊海岸(にっぽうかいがん)は、九州東部の大分県中部から宮崎県北部にかけての海岸線に設置された国定公園である。
 四国と九州を分断する豊後水道を形成した九州山地の地盤変動によって、陸地が沈水してできたリアス式海岸となっている。
 日豊とは現在の宮崎県である日向国と現在の大分県である豊後国とを指し、大分県佐賀関半島から宮崎県日向市の美々津海岸に至る、約120kmに及ぶ出入りの激しい海岸である。
 日向灘に突きだした日向岬から観る海岸は、そそり立つ断崖絶壁と、白い飛沫をあげて押し寄せる波の素晴らしいコントラストの絶景となっている。
 水温が高く透明度もあり、テーブルサンゴ類、キクメイシ類、ミドリイシ類などが生育している。
 日豊海岸は、多くが海中公園となっている景勝地である。
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2007/10/22


藤縄神楽 Fujinawa-kagura 

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 藤縄神楽(ふじなわかぐら)は愛媛県の柳沢地区において、江戸時代から演じられている九州日向神楽系統の神楽である。
 起源年については明らかではないが、弘化二(1845)年にはすでに奉納の記録が残っている。
 その昔、松山の道後温泉の湯が止まった時に、藤縄神楽の太鼓の名人、藤縄三島神社の神主が湯が出るようにと祈り神楽を奉納した。その際太鼓を「デンデン」と打つと湯が出ないというので「ドンドン、デルデル」と打ったところ、本当に湯が出るようになったという伝承話が残っている。
 その物語でも象徴しているように、神楽の中でも太鼓のリズムに様々なパターンや工夫が施されている。
 舞は歩みの幅が決められていて、その歩幅の六足四方の広さの中を舞う。
 盆神楽に似た「月日の舞」、鬼と四神が刀を交える「鬼四天」、長刀をもって荘厳に舞う「薙刀の舞」など表現が豊かな演目が多い。
 昭和五六(1981)年に市町村指定重要無形民俗文化財に指定されている。
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