NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/12/14


重箱 Jyubako Jubako Lunch Boxes

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 形は四角い物が一般的で、円形や八角形のものもある、二重・三重・四重・五重に積み重ね、食べ物を入れる箱。正式には、四季を表す四段重とされる。今日では、主に正月におせち料理を入れたり、花見や運動会などで弁当を入れる事に使われている。
 起源としては、中国の食籠(じきろう)が、伝わったものと考えられるが、室町時代の文献に、既に重箱の記述を見る事が出来る為、その歴史はかなり古いと考えられる。しかし、庶民に普及したのは江戸時代で、1610年に本格的に重箱が製造されてからである。そして、武家や大名の間では、狩りなどに出掛ける時に使用されていた。また、漆塗りや蒔絵の豪華な物も作られ、伝統工芸品として現在に伝えられている。
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2007/11/9


牡丹色(ボタンイロ) Botan-iro 

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 元は薬用として栽培されていた中国原産の牡丹。その美しく妖艶な花は「花の王」として愛好され、そして多くの歌に詠まれ、絵に描かれてきた。日本国内で文学に登場したのは枕草子が最初だとされている。
 その牡丹の花の色に因んで名づけられた日本の伝統色が、濃い紫紅色を指す牡丹色(ぼたんいろ)である。
 平安時代、宮廷の女官達は着物を何枚も重ね着し、その表に表れる衣色の配列を「重ねの色目」として、草や花に見立て季節などを表現していた。牡丹色はその頃より装束に取り上げられるようになったとされている。明治時代に入り、少しずつ化学染料が使われるようになってから、牡丹色は更に濃く鮮やかな赤紫色に染め上げられた。
 紅とは異なる、紫がかった華やかな色合いの着物は、多くの女性に爆発的な支持を得、愛されたのだと伝えられている。
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2007/11/8


房州うちわ Bousyuu-uchiwa 

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 千葉県南房総に受け継がれている伝統工芸に房州うちわ(ぼうしゅううちわ)がある。竹の丸みをそのまま活かした「丸柄」、そして多いもので六四等分に細かく割いた骨を糸で編んで作られる「窓」が特徴で、二〇ほどの工程を重ね、見事な美しいうちわを作り出している。京都府京都市などに伝わる、木の柄を差し込む「京うちわ」や、香川県丸亀市の平たく削った竹で作られる「丸亀うちわ」とともに日本三大うちわのひとつとして知られている。
 江戸時代、房州はうちわの材料となる竹の産地であった。山や野には女竹(めだけ)が自生し、節間が長い良質な竹が採れた。
 うちわ作りは明治一〇(1877)年頃からといわれており、明治一七年(1884)年に岩城惣五郎(いわきそうごろう)が東京から職人を雇い、安房郡の一大物産として有名になった。
 最近では浮世絵などの布を貼ったものなどが作られ、和風のインテリアとして注目され、平成一五(2003)年、千葉県初の国の伝統的工芸品に指定された。
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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/9/11


桐塑人形 Touso-ningyou 

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 桐塑人形(とうそにんぎょう)は、材料に桐塑を用いて製作された人形である。
 桐の木粉と生麸糊(しょうふのり)を練り上げてできる、弾性のある粘土状の素材を桐塑と呼ぶ。
 その原点は奈良時代の乾漆にあるとされ、粘土状の素材であることから自由な肉付けによる造形が可能で、乾燥すると大変硬くなるため、木材同様に彫刻を施すこともできるという特色を持つ。
 また、作りたい形にくりぬいたところに桐塑を詰め込み、同じような形のものをたくさん作る製作方法にも適していたため、江戸時代においては雛人形などの頭部や、手足を作った練り物の技法としても現在に受け継がれている。
 仕上げには胡粉仕上げや和紙貼、布貼、彩色などの各種の精緻な技法が駆使される。
 顔や手足の部分は特に念入りに作業が行われ、上塗り胡粉を塗り重ねた上で、目や眉、唇や毛髪を書いて仕上げる。
 そうして仕上げられる人形達の表現はとても豊かなものであり、現在では創作人形の重要な一分野を占めている。
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2007/9/4


練上手 Neriagede Neriagede

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 練上手(ねりあげで)は、色や濃淡の異なる複数の陶土を幾重にも重ねたり、練り上げたりして、様々な文様を表現する、芸術的にも価値の高い陶工技法の一つだ。
 その製作技法は、あえて表現するならば、お菓子のバウムクーヘンを作っているような感じといえなくもない。
 幾重もの地道な重ねや練り上げが、まるで大理石のような縞模様や美しい木目の表面を生み出す。
 とはいえ、性質の異なる複数の土を用いるため、その製作過程や焼成時に、高度な技術や経験が要求される至高の品でもある。
 その始まりは七世紀ごろの中国といわれており、当時は絞胎(こうたい)という名で呼ばれていた。
 その後、安土桃山時代前後に日本に伝来したといわれ、同時代の作例が今も残されている。
 近年では、陶土そのものに色を付ける技法も編み出され、より複雑で芸術性に富んだものも生み出されるようになった。
 古来からの幾重にも積み重なった技法に、今も新しい層を重ね上げて、発展を続けている。
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2007/8/14


山中八幡宮デンデンガッサリ Yamanaka-hachiman-guu-denden-gassari Dendengassari at Yamanaka Hachimangu Shrine

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 山中八幡宮デンデンガッサリ(やまなかはちまんぐうでんでんがっさり)は、愛知県岡崎市舞木町宮下にある山中八幡宮にて毎年1月3日に行われる祭りである。
 山中八幡宮は、文武天皇の御代(696~707)に、八幡宮を奉祀したのが創立とされている。祭神は、八幡大神。徳川家康との縁が深い神社としても知られる。
 デンデンガッサリは、豊作を祈願して行う山中八幡宮の田遊びの神事である。
 祭りでは、五穀豊穣を願って氏子らが、直径約70cm、厚み10cmほどもある餅を2段重ねにして背負い、最初に「デーン、デーン、ガッサリヤー」と掛け声を掛け、牛の真似をしてよつんばいになり、太鼓の回りを回って倒れる仕草をする。
 重すぎて牛ですら倒れるほどの豊作、という意味があり、名前は、その掛け声から呼ばれるようになったとされる。
 山中八幡宮デンデンガッサリは、室町時代から続く古式豊かな御田植神事である。
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2007/8/13


伊良湖岬 Irago-misaki 

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 伊良湖岬 (いらごみさき)は、太平洋と三河湾を望む渥美半島先端にある岬である。
 先端には紺碧の空間とのコントラストが印象的な、日本の灯台50選にも選ばれた白亜の灯台があり、付近を行き交う船の航行に重要な役目を果たしている。
 この灯台から日出の石門までの太平洋岸に面した約1kmに、数々の日本の百選(道・渚・白砂青松・音風景)に選ばれた「恋路が浜」という湾曲した美しい白砂浜がある。この恋路が浜には、その昔、許されぬ恋の逃避行を重ねてきた高貴な男女がここで力つき、貝になったという伝説が伝わっている。
 夕方になるとあざやかに空が染まり、灯台が光を灯しはじめると、辺りは幻燈的な美しさに包まれ、訪れた人々を魅了している。
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