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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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2008/3/5


武家造 Buke-zukuri Buke-zukuri

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 武家造(ぶけづくり)とは、鎌倉時代の武士の館の建築様式のことである。
 平安時代の貴族住宅の様式である寝殿造(しんでんづくり)は、寝殿と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたりどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けていた。武家造は、この寝殿造りを簡略化したもので、板ぶきの屋根・板敷きの床などの簡素なもので、防備のため一種の城郭の設備が施されていたとされている。しかし実例がないため詳細は不明であり、現在の通説では独自の様式とはされていない。
 また、室町時代の書院造りの祖形となったと考えられており、室町時代初期に建てられた金閣は、1層が寝殿造、2層は武家造、そして3層は禅宗仏殿造という3つの様式が見事に調和し、銀閣寺にみられる書院造への変遷過程をたどることができる。
 因みに江戸時代の武家屋敷と混同されがちだが、全く別の様式である。
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2008/2/27


久留里城(雨城) Kururi-jou(U-jou) 

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 久留里城(くるりじょう)は、千葉県君津市久留里内山にあった城である。築城の時に3日に一度雨が降り続いたなどと言われ、雨城(うじょう)とも呼ばれている。
 古久留里城は、伝承では平将門の三男・東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)が浦田妙見に参詣の際、夢の中でのお告げにより築城した、と言われている。
 実際には、康正年間(1455~1456)に、上総武田氏の祖、武田信長が築いたとされている。
 天文四(1535)年、里見義堯(さとみよしたか)はこの地を本拠とし、改めて古久留里城の下に久留里城を築いた。
 戦国時代は度々北条氏を迎え撃ったが、江戸時代に入って次々城主が入れ替わり、城域は山麓に広げられて近世城郭となった。
 現在は城山公園として整備されており、模擬天守が土壇の天守台脇に建造されている。
 久留里城は、久留里藩の居城として親しまれた城である。
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2007/12/10


久留米城 Kurume-jou Kurume Castle

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 久留米城(くるめじょう)は、福岡県久留米市篠山町にあった城である。
 永正年間(1504~1521)に、土豪によって築かれた砦が始まりで、本格的な築城は、天正一五(1583)年の豊臣秀吉による九州征伐後に小早川秀包(こばやかわひでかね)が入城し、同時に城を近世城郭へと改修してからとされる。
 元和六(1620)年、大坂の陣で戦功のあった有馬豊氏(ありまとようじ)が入城し、以後幕末まで久留米藩・有馬氏の居城として続いた。
 北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用した険要の地にあり、高い白土の城壁にそびえる二層と三層の七つの櫓があり、本丸東南隅の三層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っている。
 現在は石垣だけが残り、城内には有馬氏を祀る篠山神社、有馬家資料を展示する有馬記念館がある。
 久留米城は、県文化財にも指定されている古城跡である。
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柳川城(舞鶴城) Yanagawa-jou(maitsuru-jou) 

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 柳川城(やながわじょう)は、福岡県柳川市本城町にあった城である。城の輪郭が翼を広げた鶴を連想させたるので、舞鶴城(まいづるじょう)とも言われる。本丸は国の史跡に指定されている。
 文亀年間(1501~1504)に、蒲池治久(かまちはるひさ)によって築城され、後に蒲池鑑盛(あきもり)により大改築しされてからは九州随一の難攻不落な堅城となり、蒲池氏嫡流(ちゃくりゅう)・下蒲池氏の本城となった。
 蒲池氏が滅亡してからは鍋島氏、立花氏、田中氏が居城としたが、元和六(1620)年、立花宗茂(たちばなむねしげ)が入場して以後は、明治まで柳川藩主・立花氏の居城となった。
 城郭は明治五(1872)年の火災で櫓一基、土蔵、厩、3城門を残して焼失し、遺構は天守台、石垣、堀が柳川城跡として残る。
 迎賓館「西洋館」と、それに続く庭園・松濤園(しょうとうえん)が現存している。
 柳川城は、長い戦国時代を生き延びた、天下の堅城跡である。
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臼杵城 Usuki-jou 

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 臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市臼杵にあった城である。別名、丹生島城(にゅうじまじょう)とも言われる。
 永禄五(1562)年、臼杵湾に浮かぶ周囲4kmの丹生島に大友宗麟(おおともそうりん)によって築城され、宗麟はそれまでの大友氏代々の居城・府内城(ふないじょう)からこの城に移った。
 天正一四(1586)年、島津氏の大軍によって落城して後は城主は転々とし、慶長五(1600)年、稲葉氏の居城となり、以後明治維新まで続く事となる。
 明治一〇(1877)年の西南の役では、臼杵士族隊と西郷隆盛軍の間で戦いが始まったが、臼杵城は一日で落城、廃城となった。
 現在、城郭主要部は公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存している。
 臼杵城は、今でも地域の人々に慕われている城跡である。
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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/10/31


安芸郡山城 Aki-kooriyama-jyou Aki Koriyama Castle Ruins

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 安芸郡山城(吉田郡山城)は、広島県安芸高田市吉田町にあった城である。
 建武三(1336)年、吉田荘の地頭となった毛利時親が、郡山南東の一支尾根に築城した。以来、戦国時代の元就までは、この城を居城とした。
 天文一〇(1541)年、吉田郡山城の戦いでは、尼子晴久率いる2万の軍に攻められるが、これの撃退に成功している。
 天正一七(1589)年、毛利氏は広島城へその居城を移し、その後、元和年間の一国一城令により廃城となった。
 現在、城の破却で遺構はほとんど壊されているが、郡山全山に多数(約130)の曲輪(くるわ)が今も残り、この城の規模や構造が容易に推定できる。
 安芸郡山城は、郡山全体を城郭化した大規模な山城であった。
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