NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/30


平林城 Hirabayashi-jou 

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 平林城(ひらばやしじょう)は新潟県岩船郡神林村平林に位置する中世時代の居城跡である。別名加護山城(かごやまじょう)とも呼ばれている。
 築城年は不明であるが、一四世紀頃の南北朝時代に存在した。最初は南朝派の豪族平林氏の居城であったが、のちに北朝派の色部氏が制圧した。
 慶長三(1598)年に上杉景勝の会津移封により廃城となり、周囲の人口も激減したため風化していった。
 数多くの遺構が残っており曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水などが発掘されている。
 中世史を理解する上に重要な史跡として、昭和五三(1978)年、国指定の史跡名勝記念物となった。
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2008/6/26


吉田城(今橋城) Yoshida-jou(Imabashi-jou) 

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 吉田城(よしだじょう)は、別名・今橋城(いまばしじょう)とも呼ばれ、永正二(1505)年、今川方であった牧野古白(まきのこはく)によって築城された。
 近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文一五(1546)年になって今川義元が城代を置いた。
 戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で、名前を今橋から吉田と改めた。
 永禄八(1565)年、徳川家康は今川氏の最大拠点であった吉田城を攻略し、酒井忠次を置いた。
 そして天正一八(1590)年、徳川家康の関東移封により、池田輝政が一五万二千石で入城、城下町の整備などをおこなったが、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの後、播州姫路に所替えとなった。
 現在、吉田城跡のある豊橋公園には、本丸跡に復元された三層の隅櫓があるほか、石垣や空堀、土塁などが残されている。
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2008/5/22


洲本城(三熊城) Sumoto-jou(Mikuma-jou) 

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 兵庫県洲本市の「洲本城(すもとじょう)」は、大永六(1526)年に安宅治興が三熊山に築城した。
 天正九(1581)年、清康に受け継がれていた頃に、織田信長の命による淡路討伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城した。天正一〇(1582)年に仙石秀久が入り、天正一三(1585)年には脇坂安治が城主となる。その際、大修築が行われた。慶長一四(1609)年に安治は伊予大洲へと移封となり、慶長一五(1610)年に池田忠雄が六万三千石で入封した。一時廃城となり忠雄は由良成山城に居城する事になる。そして城は阿波徳島の蜂須賀至鎮の所領となる。寛永一二(1635)年、交通の便の悪かった由良城から拠点を洲本城へ移した。四年をかけて城下町ごとの移転だった為、「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。城代は稲田氏が代々務めた。
 現在、昭和三(1928)年に築造された模擬天守があり、江戸時代のものを復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
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2008/2/25


銀線細工 Ginsen-zaiku 

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 銀線細工(ぎんせんざいく)は、秋田市内のみで生産される伝統的な金属工芸品で、市の無形文化財および県の伝統的工芸品に指定されている。
 天文年間(1532~1554)、一大貿易港だった長崎の平戸に、オランダ人が銀線細工を伝えたことに始まる。平戸藩と秋田藩の江戸屋敷が隣同士であったため、初代秋田藩主がそれを知り、慶長七(1602)年に常陸国から秋田に移封された際、この技術を持つ金銀細工師を伴ったことにより伝わったとされる。
 当時は武具の飾りやかんざしが、また明治・大正時代には髪飾りが盛んに作られていたが、今日ではブローチ、イヤリング、ペンダント、カフスやタイ留めといった、洋装用のアクセサリーが中心になっている。
 秋田銀線細工の特徴は、〇・二ミリ程の極細の銀線を寄り合わせ、花や蝶などを題材に、手先と簡単な道具だけで様々な形を作り上げていく技法にある。一〇ほどの工程を通して、一点ずつ丹念に仕上げて行く。材料には、白さを出すために純銀が用いられる。
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2008/1/8


山王 日枝神社 Sanno-Hiejinja Sanno Hie Shrine

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 東京都永田町にある日枝神社は、文明一〇年(1478)、太田道灌公が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として日吉社を勧請したのに始まるとされている。
  その後、徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って『城内鎮守の社』として、また市民からは『江戸の産神』として崇敬されることとなる。
 当初は江戸城敷地内にあり、一般参拝は出来なかったが、 二代将軍秀忠公の江戸城改築にあたり、江戸城外に遷座され、庶民の参拝が可能となった。
 毎年六月に行われる山王祭は、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する『天下祭り』として、神田明神の神田祭、富岡八幡宮深川八幡祭りとともに江戸三大祭の筆頭として長く親しまれている。
 威勢の良い下町の江戸っ子の中には、『山王祭はお上品過ぎるねぇ』といわれる方もいるが、もし時間があるのなら、江戸の祭りをはしごしてみるのも一興かもしれない。
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2007/10/31


一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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2007/10/18


土浦城 Tsuchiura-jyou 

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 土浦城は茨城県土浦市中央に位置した城である。
 桜川の支流を引き込み、水掘を周囲に囲ませた平城で、水に浮かぶ亀に見立て「亀城」の異名を持った。
 永享年間(1429〜41)に今泉三郎が築城した。戦国時代には小田守治が城主となるが、佐竹氏に攻められ降伏。江戸時代に入り転封が続くが、貞享四(1687)年に土屋政直が移封した後は幕末まで続いた。
 廃藩置県後廃城となり、明治一七(1884)年の火災で建物の多くが焼失した。
 現存するのは城門と櫓門で、本丸内櫓門は関東地方唯一のもの。周辺には土塁や堀が残り、往時の繁栄をうかがわせる。
 東櫓は近年復元されたもので、土浦市立博物館の一部として使われ、鯱瓦などの遺構を保存している。
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2007/10/11


金剛山大隆寺 Kongouzan-dairyuu-ji 

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 宇和津町の金剛山大隆寺(こんごうざんだいりゅうじ)は、野川の龍華山等覚寺、今は廃寺となった安国山大通寺とともに、宇和島藩伊達家の菩提寺であった。
 慶長一三(1608)年、伊勢国の武将富田信高(とみたのぶたか)が、関ヶ原の戦いでの功績を徳川家康に認められ、伊予国宇和島藩一二万石に加増移封された。信高は父・一白の菩提を弔うために禅寺を建立。後に宇和島藩第五代藩主・伊達村候(だてむらとき)がこの寺を再興し、簾方大和尚を招いて金剛山大隆寺と改めた。
 墓には五代村候、七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)の藩主のほか、藩主夫人や多くの重臣も葬られている。境内には市の名勝に指定された庭園があり、経蔵や茶室、書院と見事な調和が図られ、訪れる人々の目を楽しませている。
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