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2008/10/17


北風原 羯鼓舞  Narai-hara Kakkomai 

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 北風原の羯鼓舞(かっこまい)は、千葉県鴨川市北風原(ならいはら)で伝承されている伝統芸能である。
 毎年七月の第四日曜日に、北風原地区の春日神社の例祭として、請雨山(しょううさん)の愛宕神社の獅子神楽と一年交代で奉納されており、どちらも愛宕神社境内で行なわれている。
 その起源は定かではないが、一説には室町時代の天文年間(1532~1554)、安房国主であった里見義実(さとみよしざね)の命により、雨乞いと豊作を祈念して始められたと伝えられている。
 雄獅子と雌獅子、中獅子からなる三匹の獅子が、腹につけた雅楽や能楽用の鼓である羯鼓を軽快な調子で打ちながら舞い踊られる、三匹獅子舞の形態をとっている。
 恵みの雨が降ることを天に託した、農民たちの切なる願いが込められたその舞いは、県の無形民俗文化財にも指定されており、今も保存会の人々により、脈々と受け継がれている。
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2008/10/1


あげ馬 Age-uma 

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 あげ馬は宮崎県都城市山之口町花木や高木町で行われる祭り。諏訪神社祭典の一環として行われる。
 天正二〇(1592)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵において、島津藩主以久が諏訪神社へ出陣祈願し、そして凱旋後に馬を献上し、神楽を奉納したことから始ったとされている。
 その後、農民たちが豊作を願うために毎年7月に行われていたが、第2次世界大戦後途絶えた。昭和五九(1984)年に復活、現在は4年に1度行われている。
 諏訪神社に向かい、行列が練り歩く。先頭は鎧兜に太刀姿の「棒つき」で、その後に「弓」「鉄砲」が続く。7歳の稚児が乗る馬と、荷駄馬が中心となる。総勢70名ほどが神社に着くと、歌にあわせて参拝、拝礼する。
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2008/9/10


中山の虚無僧踊 Chuuzan-no-komusou-odori 

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 鹿児島県鹿児島市に伝わる中山(ちゅうざん)の虚無僧踊(こむそうおどり)は、七月下旬に白山神社で奉納される踊りで、昭和三八(1963)年に県の無形民俗文化財に指定されている。
 虚無僧踊が始まった由来は、豊臣氏が滅亡したとき、豊臣家の家臣親だった有水善右衛門重政(ありみずぜんえもんしげまさ)が主家の再興を図って農兵を興そうとして踊りを教えたという説と、王政復古の頃に、虚無僧に扮した幕府の密使が無礼な振る舞いをしたため、農民たちが持ち合わせていた天秤棒で密使を打ち果たしたという二つの説がある。
 この踊りは棒踊りの一種で、踊り子の中心は中山町下の平馬場・福永・真方・大薗の四地区の二才組と呼ばれる青年達である。虚無僧と棒つかいが、棒・小太刀・扇子と三種の持ち物を扱い、体型や踊りに変化を持たせて勇壮活発な踊りをみせる。
 
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2008/8/29


大獅子小獅子の舞 Oo-jishi-ko-jishi-no-mai The Dance of Big Shishi and Small Shishi

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 年に一度、半田市の春の祭礼「春の山車祭り」で成岩神社に奉納される舞が「大獅子小獅子(おおじしこじし)の舞」である。
 祭礼に奉納される獅子舞は数多くあるが、その中でもこの舞の歴史は特に古い。江戸中期にはすでに舞踊られていたという記録が残っており、それ以前の流派が色濃く伝承されているという。
 大獅子・小獅子それぞれ二人で四足の獣体をかたどる伎楽(ぎがく)獅子と呼ばれる。
 白い鶏の冠をつけ、簓(ささら)と呼ばれる楽器を手にした男の子、「ささら摺りの童子」に寄り添われ、大獅子の舞が演じられる。乱獅子、花獅子、鳶獅子、剣獅子の四曲が大獅子によって演じられた後、小獅子の舞が始まる。
 道化役のおかめとひょっとこが現れ、軽快な調子で小獅子は十二曲の舞を演じる。農民達の雨乞いの祈りが込められているという小獅子は、地をのたうち雲を呼んで天に昇ろうとする龍の姿を演ずるものである。
 昭和四二年一〇月三〇日に県の無形民俗文化財に指定された。
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2008/8/4


明治川神社 Meijigawa-jinja 

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 明治川神社は明治一八(1885)年、明治用水建設に貢献した人たちを守護神として建立された神社である。
 明治用水は、ため池の水に頼るしかない村の枯れた土地へ、川の水を引き込み、大規模な耕地拡大を狙った計画で、碧海郡和泉村の豪農、都築弥厚(つづきやこう)が幕府に嘆願書を出したことが発端だとされる。ところが、農民たちの理解がなかなか得られず、志半ばで弥厚は亡くなってしまったという。
 明治期に入り、岡本兵松(ひょうまつ)、伊豫田予八郎(いよだよはちろう)らの手によってその開発計画が再燃した。そして明治一二(1879)年にようやく着工、翌年見事に第一次工事が完成し、その後枯れた台地が緑の台地に変わっていったのである。
 都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎らはこうした功績を称られ、今でも水の神様として土地の人々に崇められているという。
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龍勢祭り Ryuusei-matsuri 

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 龍勢祭り(りゅうせいまつり)は埼玉県秩父市の椋神社(むくじんじゃ)で毎年一〇月の第二日曜日に行われる祭りである。
 椋神社は平安時代の律、令、格の施行細則を集成した法典『延喜式(えんぎしき)』の神社一覧を記した『神名帳(じんみょうちょう)』にも載る古い神社である。
 龍勢祭りは江戸時代から行われている祭りであり、その名の通り、今でいうロケット花火を農民たちが打ち上げ、その花火が勢いよく上空を舞う姿が、まさに龍が天を昇る姿であるように見えたことからこの名がついたといわれている。
 祭りの当日には龍勢作りの27の流派が、それぞれ工夫をこらしたロケット花火を打ち上げる。龍勢作りには長い竹を利用し、火薬筒に松材を使い、縦に真二つに切って中をくり抜き、それを合わせて竹のタガをかける。火薬は黒色火薬を使う。
 祭り当日は朝9時頃から東西、東西から椋の神社にご奉納の口上とともに総勢30発のロケットが打ち上げられる。
 龍勢祭りは埼玉県の無形民族文化財に指定されている。
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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/7/30


棒の手 Bou-no-te 

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 「棒の手(ぼうのて)」は愛知県に古くから伝わる、代表的な民俗芸能の一つで、剣術や棒術など武術の形を踊りにした、いくつもの流派を持つ日本舞踊である。
 棒の手の起源は定かではないが、一説によると本郷城主、主丹羽若狭守氏清(たんばわかさのかみうじきよ)が、農民達に武術を習得させたのが始まりだといわれている。丹羽氏の勢力と共に各地に広まったとする説や、修験道の影響が大きいとする説もある。
 以来、棒の手は若者衆により受け継がれ、小学校卒業から一六歳頃までの一定の年齢に達した男子は、青年会などの組織に入り、棒の手の手習いを受けたという。月に六回練習日を決めて通い、三年または六年目にしてようやく、年齢、技量、人格が備わった者にのみ免許が与えられる、厳しい道であったとされる。
 現在も県内各地でその各流派の伝統が守り続けられており、木刀や槍、薙刀などを使った迫力のある技が披露されている。
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