|
御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市役所東支所の敷地内にあり、敷地内に城址公園として石碑が建てられている。
茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣であった小寺政隆が永承一六(1519)年に築城した。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と共に播磨三名城といわれていた。
以後三代六〇余年続いたが、天正七(1579)年、豊臣秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため攻撃を受け落城した。
現在の御着城は、本丸中央を国道二号線が貫いており、周囲も宅地化している。支所の建物は城郭風になっており、その裏には空掘跡に天川橋が架けられている。
昭和五二(1977)年からの発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばには大型や中型の堀や土塁が築かれ、本格的な縄張りが行われていた事が判明した。
茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣であった小寺政隆が永承一六(1519)年に築城した。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と共に播磨三名城といわれていた。
以後三代六〇余年続いたが、天正七(1579)年、豊臣秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため攻撃を受け落城した。
現在の御着城は、本丸中央を国道二号線が貫いており、周囲も宅地化している。支所の建物は城郭風になっており、その裏には空掘跡に天川橋が架けられている。
昭和五二(1977)年からの発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばには大型や中型の堀や土塁が築かれ、本格的な縄張りが行われていた事が判明した。
[+ADDRESS] |