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2007/8/7


長勝寺津軽家霊屋 Choushou-ji-tsugaru-ke-tamaya 

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 長勝寺(ちゅうしょうじ)境内にある御影堂(みかげどう)から南に一直線にならぶように弘前藩主津軽家の霊屋(ひろさきはんしゅつがるけのたまや)が、五棟並んでいる。
 大名やその家族になると墓は複数存在する場合もあり、これらも墓の一種である。
 それぞれに名前がついており、寛永五(1628)年に建立され寛文一二(1672)年に再建された初代為信室の霊屋である環月臺(かんげつだい)、寛永八(1631)年に建てられた二代藩主信枚の霊屋、碧巌臺(へきがんだい)、寛永一五(1638)年に建てられた二代信枚室の霊屋、明鏡臺(めいきょうだい)、明暦二(1656)年に建立された三代藩主信義の霊屋、白雲臺(はくうんだい)、宝暦三(1753)年に建てられた六代藩圭信著の凌雲臺(りょううんだい)とならんでいる。
 それぞれに似た構造となっているが、細かいデザインが変化しているため、時代による様式の変化を感じることができる。
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弘前東照宮 Hirosaki-toushouguu 

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 弘前東照宮(ひろさきとうしょうぐう)は、江戸時代初期に全国に作られた徳川家康を祀る東照宮の一つで、津軽藩二代藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)が元和三(1617)年に日光東照宮に祀られている徳川家康を分霊。弘前城本丸に勧請し、寛永元(1624)年現在地に移した。
 他の地域にある東照宮と比べ早い時期に勧請できたのは、信枚の正室が家康の養女であり、親藩に準ずる家柄と認められたためであった。
 本殿は白木造りで、屋根の装飾である鬼板(おにいた)や屋根の両端部分を装飾する妻飾(つまかざり)、梁の上に置いた受け木である蟇股(かえるまた)には徳川家の家紋である葵紋が彫られている。
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2007/8/6


仙台御筆・宮城野萩筆 Sendai-ofude Miyagino-hagi-fude Sendai Ofude (Brushes), Miyagino Hagi-fude

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 仙台御筆(せんだいおふで)とは、慶長十九(1614)年に仙台藩祖伊達政宗が、大阪より筆職人を招聘(しょうへい)して筆師育成と共に、学問と勧業の両面を積極的に奨励したことから生まれたものである。
 筆職人を召抱えて以降は、常時筆師の育成が行われ、藩士たちの内職としても作られたことから、そうした切磋琢磨により技巧もより精細となっていく。
 丁寧な技法や仕事振りで生み出される筆の名声は高まっていき、ついには時の将軍に献上されたことから、恭しく「仙台御筆」と呼ばれるようになったといわれている。
 そんな筆製作技術が向上する中、趣味人でもあった政宗公が仙台藩の狩場である宮城野原に自生していた萩を軸にして作らせたのが宮城野萩筆(みやぎのはぎふで)である。
 野趣性あふれる軸と、その先に付く繊細な筆先との組み合わせは、広く全国の歌人や俳人に好まれ、仙台御筆における象徴的な逸品として、今も多くの愛好家に親しまれている。
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2007/7/30


暗門の滝 Anmon-no-taki 

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 暗門の滝(あんもんのたき)とは、青森県南西部より秋田県北西部の一三万ヘクタールにまたがる山、世界遺産である白神山地の東側に流れる暗門川に位置する3つの滝のことである。
 訪れた人々は、入り口から第三の滝、第二の滝、第一の滝と順に訪れることができる。
 通常、こういった滝は、川下から一、二、三と数えるが、これらの滝は、川上から一、二、三と数える特徴がある。これは江戸後期の紀行家、随筆家であった菅江真澄(すがえますみ)が、山頂から滝を数えたためと言われている。
 当時、津軽藩では、薬を作るために滝の上でケシの栽培をしていた。そのため、一般の人々が観光目的で訪れないよう、元々「安門の滝」とされていた文字を、印象を貶める意味で「暗門の滝」とわざわざ名前を変えたと伝えられている。
 滝の高さは第一の滝落差四二メートル、第二の滝三七メートル、第三の滝二六メートルと、 全ての滝の規模は大きく、心地よい水しぶきをあげており、涼しさを感じることができる。
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2007/7/27


広瀬川灯ろう流し Hirose-gawa-tourou-nagashi The Lantern Float in the Hirose River

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広瀬川灯ろう流し(ひろせがわとうろうながし)は、宮城県仙台市を流れる広瀬川河岸宮沢橋~広瀬橋間にて毎年お盆の季節に行われている行事である。
 今から約250年ほど前の宝暦・天明・天保時代、数度にわたる冷害や大凶作があり、東北で数十万の人々が飢餓に見舞われた。
 その際、伊達藩が広瀬橋近くに救助小屋を設けた事から、悲運の死を迎えた人々を供養する為に広瀬川で灯ろう流しが始められた。
 以来、毎年続けられており、戦後は花火大会も同時に開催されるなど、仙台の夏の風物詩として親しまれ、しばし中断ののち、平成二(1990)年より復活した。
 野外コンサートや、夜には大花火大会が行われ、そのフィナーレには広瀬川一杯に広がる130mの大ナイヤガラが広瀬川を彩る。
 広瀬川灯ろう流しは、仙台を代表する由緒ある行事である。
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埋木細工 Umoregi-zaiku Umoregi-zaiku (Bogwood Carvings)

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 埋木細工(うもれぎざいく)は、宮城県仙台市の青葉山に今も伝わる伝統工芸である。
 その青葉山から炭化した「埋木」が発見されたのは、文政五(1822)年のこと。仙台藩の足軽武士・山下周吉が発見し、様々な工夫を行い、器や神饌の下敷きに使用される掻敷(かいしき)を作ったのがその始まりといわれている。
 埋木とは、三百万年~五百万年前の地層から採掘された、針葉樹の炭化した珪化木(けいかぼく)という、いわゆる植物の化石であり、石炭になる一歩手前の状態のものである。
 全国的にも類を見ない特異な工芸資材であり、今では入手も困難なものもある。
 木などを刃物で刳る刳物(くりもの)技法が用いられ、拭漆(ふきうるし)にて艶出を行う。7~8回繰り返し拭きあげると、木とは思えないような深い光沢と重量感あふれる作品が誕生する。
 伊達藩下級武士たちの内職として彼らの懐を暖めた技術は、数百年の時を経て芸術の域にまで到達し、今も私達の目を楽しませてくれる。
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2007/7/6


夷王山 Iou-zan 

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 夷王山(いおうざん)は、北海道上ノ国市街の裏手にある標高159mの丘陵地。
 この地には、室町時代に松前藩の祖・武田信広が花沢館から移り住み、勝山館と名づけられた城郭が築かれたという歴史がある。松前藩は後に本拠を松前に移すが、16世紀末まで日本海側の拠点として繁栄したという。
 夷王山の山頂からは、日本海に浮かぶ奥尻や大島、日本海の美しい海岸線、上ノ国、江差町一帯が眺望できるビュースポットである。
 初夏には付近一帯に約5000種の山野草が咲き揃う。とりわけエゾヤマツツジは美しく、夷王山を真っ赤に焦がすように咲き乱れる。
 毎年6月には「夷王山まつり」を開催。たいまつ行列や神楽、獅子舞の奉納などが盛大に執り行われ、近隣の人々で大変賑うという。
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2007/4/10


樺細工 Kaba-zaiku 

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 樺(かば)細工は秋田県仙北市角館町に伝わる木工品で、経済産業大臣指定の伝統工芸品である。
 江戸時代中期に佐竹藩藩士、藤村彦六が阿仁(あに)地方の修験者から技術を学んだのが始まりとされる。その後、下級武士の内職として広まり、藩の保護を受けて、参勤交代の際の江戸への土産物として広く知られた。
 ヤマザクラ類の樹皮を加工する、世界でも珍しい工芸品。元々は印籠、煙草入れ、根付などが主だったが、現在では茶筒、小箱などの実用品からブローチやタイピンなどのアクセサリーも作られている。
 桜の皮を用いながら樺細工と呼ぶのは、昔は樹皮を総じて樺と読んでいたなどの説があるが、明らかではない。桜皮細工と称する場合もある。
 桜自体の木目を鮮やかに用いた素朴で美しい工芸品である。
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