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2007/10/31


玉陵(世界遺産) Tama-udun Tamaudun (World Heritage Site)

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 玉陵(たまうどぅん)は、沖縄県那覇市金城町にある、琉球王朝の陵墓である。世界遺産に登録されており、全体が国の史跡である。
 1501年、琉球王尚真によって玉陵は築かれた。
 琉球では、墓を立派なものにして、祖先崇拝信仰の表現形態とする志向が強い。
 また、玉陵の設立は、祖先崇拝信仰を国内統治の安定・強化に利用しようとした意図があったものと考えられている。
 玉陵は中室、東室、西室の3つに分かれている。中室は葬儀後、遺骸が骨になるまで放置し、骨を取り出して洗骨した。その後、王と妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
 玉陵は太平洋戦争で大きな被害を被り、現在見られる大部分は大戦後に復元されたものである。
 玉陵は、琉球の神聖なる場所であり、厳かな墓所である。
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2007/3/9


園比屋武御嶽石門(世界遺産) Sono-hyan-utaki-ishimon Sonohyan Utaki Ishi-mon Gate (World Heritage Site)

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 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、沖縄県那覇市首里真和志町にある石造建築物である。
 1519年、琉球王の尚真によって創建された。築造者は西塘とされる。
 石門は、守礼門と首里城歓会門の中間にある。石門と周辺の森を総称して園比屋武御嶽という。
 御嶽は村落共同体ごとにある聖域で、古代よりここを中心に農耕儀式、漁労、狩猟儀式など神に関わる祭や行事が行われてきた場所である。
 琉球王国時代は国王の拝所であり、国王が首里城を出て各地に巡行する祭に安全を祈願したり、聞声大君の即位式の際にお参りする、重要な場所であった。
 太平洋戦争の沖縄戦で破壊されたが、1957年に復元された。
 2000年、ユネスコの世界遺産に登録された。
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識名園 Shikina-en Shikinaen Garden

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 識名園は、沖縄県那覇市真地にある、琉球王の別邸。
 造園は琉球の尚穆(1752〜95年)の時代に始まったと言われる。1799年、完成した。
 総面積1万2千坪で、琉球王家最大の別邸である。国王一家の保養や外国使臣の接待などの迎賓館として造られた。
 識名園は、池の廻りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした廻遊式庭園である。
 池の周辺に御殿、築山、花園などを配置し、池には大小のアーチ橋が架かり、池の小島には中国風の六角堂も建てられている。
 中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築された。
 太平洋戦争で園内の多くの建造物が破壊されたため、現在見られるものは復元されたものである。
 識名園は、在りし日の琉球王家を想像させる、見目麗しい庭園である。
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2007/1/30


玉那覇有公(人間国宝) Tamanaha Yuukou Yuko Tamanaha (Living National Treasure)

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 昭和十一(1936)年、沖縄県石垣市に生まれる。平成八(1996)年、重要無形文化財「紅型(びんがた)」保持者認定(人間国宝)を受ける。
 「紅型」は、琉球王国の王朝文化を象徴する華麗な染色である。その色は沖縄の自然の色を映しているとも言われ、その圧倒的な色彩美は伝承の技を継承する匠たちが日々技を追求する琉球唯一の染物だ。
 王那覇有公氏は、紅型三宗家の一家、城間家十四代、城間栄喜氏に師事、修行を積んだ。その後三四歳で公募展に初出展、数々の輝かしい受賞を遂げる。
 経歴は華やかだが、氏の仕事はじつに地道な作業の繰り返しだ。細やかさと忍耐が要求される手仕事を積み重ねてはじめて美しい染めに仕上がるのだという。
 現在は読谷村にある工房「玉那覇紅型研究所」で一家をあげて、紅型の製作に日々取り組んでいる。
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2007/1/12


那覇大綱挽 Nahaootunahiki Naha Great Tug-of-War

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 那覇大綱挽は、那覇まつりのなかのメインイベントであり、毎年体育の日に行われる。
 那覇大綱挽は、17世紀ごろジュリ馬行列祭の際に遊女達が綱引きを行ったのが起源とされる歴史ある大綱挽で、現在の形になったのは1971年からである。
 全長200mの大綱を東西に分かれて、「ハーイヤ、ハーイヤ」のかけ声のもとで挽き合うダイナミックな綱挽は、国道58号で行われる。
 市民、軍人、観光客を合わせ約15000人が綱を挽く。終了後は、無病息災のお守りといわれる枝綱を持ち帰ることができる。
 どちらかに2メートル以上寄った時点で勝負が決まり、終了後は、無病息災のお守りとして枝綱を持ち帰ることができる。
 1995年、世界一の大綱としてギネスブックに認定。そのスケールの大きさは壮観である。
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首里織 Syuriori Shuri-Ori Textiles

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 首里織は、紋織から絣に至るまで多彩に織られる、沖縄の高級織物である。
 首里織は、南方から伝えられたといわれる絣技術と、中国から伝えられた紋織りの技術を取り入れ、首里の上流階級や士族の女性たちによって首里の織物として織られた織物である。
 琉球王府の置かれた首里は政治文化の中心にふさわしく、色、柄ともに格調高く洗練された多種類の染織が発達していった。
 それは海外交易に深く関係しており、国外から織物の技術や材料を取り入れ、首里花織、ロートン織、花倉織、首里絣など幾種もの独特の織物が織られてきた。
 首里織は、琉球藍、クロトン、福木などを使い草木染され、首里の士族階級に着用された、多色染めの気品高い織物である。
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天女橋 Tennyobasi Tennyobashi Bridge

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 天女橋は、沖縄・那覇市にある円覚寺総門前の円鑑池の中にある弁財天堂に架けられた、日本最古の石造りアーチ橋である。
 1502年、朝鮮から贈られた経典を収納する堂宇が建てられた。天女橋は、堂宇へ渡る橋としてその時架けられたものである。
 この橋長9.4m、幅3mの小さな橋の名前は、中之島に祀られていた水の女神「弁財天」に由来する。
 橋の形式は、石造の単拱橋で、橋の中央アーチ上部が高くなっていて、その前後をゆるい斜面にしている。中国南部地方に多い、駝背橋(らくだの背中に似た橋)の形式の特徴を持つ橋である。
 1972年、国指定重要文化財に指定される。
 天女橋は、歴史と落ち着きを感じさせてくれる橋である。
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2007/1/11


エイサー Eisaa The Eisa Dance

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 エイサーは、沖縄の旧盆に行われる、盆踊りの様な行事である。
 1479年の「李朝実録」の中に、当時の那覇の記録としてエイサーが出ていて、この頃が始まりと考えられている。
 エイサーという名は、琉球歌謡集「おもろさうし」からという説や、「エイサー、エイサー」の囃子からという説があるが、どちらも確証はなく不明である。
 エイサーは自分のシマ(地域)の各家々を回る。このようにして家々を回り歩くことを道ジュネーと呼ぶ。特に15日の御送りを済ませた後に始める所が多いが、最近は旧盆の3日間行う所もある。
 エイサーの主体は太鼓と踊りである。地謡の演奏に合わせて太鼓を叩いていく際に、激しいアクションを見せる。数十人の太鼓踊りの統一感、一斉の躍動といった勇壮さが、エイサーの大きな魅力の一つとなっている。
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