NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/5/22


淀城 Yodo-jou 

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 京都府の「淀城(よどじょう)」は、古くは戦国時代に桂川、宇治川、木津川が合流し、水陸の交通などの要所であるこの淀の地に築かれた。これは三川が合流する北岸の納所地区にあったと云われている。その後、同じ納所地区に築かれた淀城は豊臣秀吉が側室の茶々に与え、「淀殿」と呼ばれる様になった事はよく知られている。
 元和五(1619)年、徳川二代将軍秀忠は伏見城の廃城に伴い、松平越中守定綱に築城を命じた。元和九(1623)年に着工し、寛永二(1625)年に竣工したのが現在に残る中州の西部に位置する淀城である。
 江戸時代の淀城は周囲に二重、三重の濠をめぐらしており、城の西南と北の二ヶ所には「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」という歌で有名な、直径8mもの水車が取り付けられていた。
 現在は本丸周辺の整備が進み、開発の手の入らなかった箇所に石垣や堀が残されている。
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2008/4/11


古着着物リメイク アロハシャツ Furugi-rimeiku Aroha-shatsu 

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 商品は、古い着物をほどき、アロハシャツに仕立て直した物である。
 アロハシャツとは、パイナップルやフラを踊る女性などのトロピカルなモチーフや、金魚、虎などのオリエンタルなモチーフを華やかでカラフルな色彩で染め上げた、シルクやレーヨン、ポリエステル、綿などの生地を用いて作られる開襟シャツ。
 20世紀初頭、ハワイの日本移民が、持参品であった着物の再利用の際に開襟シャツに仕立てたのが起源といわれている。
 品物は、実際に使用していた日本の着物をリメイクした品で、起源に沿った本物志向の着物となっている。
 古いシャツ独特のヨレヨレ感や多少の黄ばみが、ビンテージものとしての年代を感じさせる。
 古着着物リメイクのアロハシャツは、使い込んだ感じがおしゃれなシャツである。
 
サイズは
男性用はLのみ
女性用はMのみ
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2008/4/9


朝日焼 Asahi-yaki 

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 朝日焼(あさひやき)は、京都府宇治市で焼かれる陶器を指す。この地では、古墳時代から焼きものが焼かれていた。室町時代に宇治茶の栽培が盛んになると、茶の湯向けの国産陶器が焼かれるようになり、これが朝日焼の原型ではないかといわれている。
 朝日焼の初代作陶は慶長年間(1596~1615)に宇治川のほとり、朝日山麓で開窯したと伝えられ、二代目の時に遠州七窯の一つに数えられるようになった。その後、苦しい時代を乗り越え、江戸末期には早くから御所への出入りを許され、全盛期を迎えた。伝統の窯と技は代々受け継がれ、今日に至っている。
 朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。師匠が焼いたものという意味の赤い粗めの斑点が表面に浮き出たような器を「燔師(はんし)」、燔師とは対照的に鹿の背中を思わせるきめ細かな斑点が見られる器を「鹿背(かせ)」、鹿背の中でも特に鉄分が多くよりくっきりと紅色が見える器を「紅鹿背(べにかせ)」と呼んで区別している。
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2007/11/20


香 Kaori 

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 香(かおり)は、古代から人間の生活に深く関わってきた、重要な文化である。
 人が良い香りに接した最初の方法は、芳香物質に偶然火を点けることであったと想像されている。
 香りはシルクロードを通して日本に伝わったとされ、日本書紀には、推古三(595)年、漂着した流木が天皇に献上され、摂政・聖徳太子が、これは稀有の至宝「沈香」であると教えた逸話が残っている。
 平安時代には貴族の間で香り遊びなども行われるようになり、室町時代に、一定の作法に従って香を鑑賞する「香道」が興り、日本独自の発展をした。
 江戸時代に入り線香が製造され、香道では、二種類以上の香木による複雑なゲーム・組香が考案され、源氏香や競馬香、宇治山香も始まった。また、明治時代になると西洋から香水が入り、流行した。
 現代では科学的効能も考慮した、癒しやリラクゼーションなど多岐に渡った香り文化が花開いている。
 香は現在、暮らしに欠かせない彩りとして、広く浸透している。
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2007/11/7


道元 Dougen Dogen

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 道元(どうげん)は曹洞宗の開祖。道元禅師と呼ばれる。
 正治二(1200)年、京都生まれ。一三歳で比叡山に昇り、翌年に出家。天台教学や禅を学ぶ。
 「正法」を求め、中国へ渡る。宝慶元(1225)年、天童山で如浄禅師と出会い、法を相承。「只管打坐(しかんたざ)」というひたすら坐禅に打ち込む修行が特徴。
 帰国後、建仁寺に住み、直ちに『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著した。約八年間、宇治の興聖寺(こうしょうじ)で禅の布教に専念した。
 越前に移り、大仏寺(現・永平寺)を開き、弟子の育成に力を注いだ。優れた人材を輩出し、日本各地に曹洞禅(そうとうぜん)を広めた。
 代表的な著作『正法眼蔵』は、九〇余卷にも及び、悟りへ至る道が記された書として、語り継がれ、研究され続けている。
 建長五(1253)年、五四歳で死去。
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2007/6/20


県祭 Agata-matsuri 

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 京都府宇治市の、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神とする県(あがた)神社の祭礼。毎年、6月5日から6日の未明にかけて行なわれている。
 別名「暗やみの奇祭」として知られるこの県祭は、5日午後11時から翌6日の午前1時頃まで行われる「梵天渡御(ぼんてんとぎょ)」がハイライト。長さ約2.4メートルの青竹の先に直径2メートルほどの球状の御幣をつけた梵天御輿と、雌獅子・雄獅子の各御輿が、灯火を消した暗闇の中、宇治神社御旅所を出発。県神社本殿に奉幣されるまでの約2キロメートルの間に、梵天を猛スピードで回転させる勇壮な「ぶん回し」が披露される。
 この県神社は、平等院建立時にはその鎮守となったとも伝えられている由緒ある神社で、県祭りも江戸時代には既に「暗やみの奇祭」として知られていたという。
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2007/5/31


能面 橋姫 Noumen Hashi-hime Noh Mask Hashihime

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 能面「橋姫」は、能の「宇治の橋姫」で主人公の橋姫が付ける能面。
 「宇治の橋姫」のあらすじは、次の通りである。自分を捨てて他の女を妻とした夫を恨み、復讐に燃えて貴船の宮に牛の刻参りをする女、橋姫。赤い衣を着て顔に丹を塗り、火を燃やした鉄輪を頭に載せて憤怒の心を持てば鬼神になれると社人に教えられ、その決心を固める。やがて女の前夫が夢見が悪いのを陰陽師に占ってもらうと、女の深い恨みで命が今夜限りと知らされる。驚いて祈祷をしているところへ女の生霊が鬼形となって現れ、男を連れて行こうとする。
 この、女が鬼形となって現れるところで付ける能面が「橋姫」だ。女の業や嫉妬の醜さを表し、額には幾重もの青筋が浮かび、歯を食いしばり、目は大きくつり上がる。
 「橋姫」は、醜く怖い中にどこか哀しげな表情があり、女の愛の哀愁がよく表現された能面である。
 
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2007/5/1


宇治上神社 Ujigami-jinjya 

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 宇治川の東岸の朝日山の山裾にに鎮座する宇治上神社。
 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、仁徳天皇、の兄弟とその父である応神天皇を祀る。宇治の名は、この菟道稚郎子の名に由来する。
 対となる宇治神社は菟道稚郎子の屋敷跡といわれ、菟道稚郎子を祀っている。
 平安末に建てられた本殿は神社建築では日本最古といわれ、再建されていない。檜皮葺きの覆屋の中に一間社流造(いっけんしゃながれづくり))の三つの内殿が並ぶ。
 また拝殿は鎌倉時代の桧の木が使われており、いずれも「国宝」に指定されている。
 拝殿の脇には「宇治七名水」のひとつである「桐原水」(きりはらすい)と呼ばれる自然の水が湧き出ており、地元の人たちがありがたい水として汲みに来る姿がよく見られる。
 またここは、世界遺産である「古都京都の文化財」のひとつとなっている。
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