NIPPON Kichi - 日本吉

記事数9件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/3/12


名寄鈴石 Nayoro-suzuishi 

Jp

 名寄鈴石(なよろすずいし)は、褐鉄鋼(かってっこう)という鉱物の一種で、昭和一四(1939)年九月に国の天然記念物の指定を受けた。
 約一〇万年前にできた丘陵や台地の土中に産出し、昭和五(1930)年に、名寄在住の弁護士で郷土史家の田中長三郎が発見した。
 核となる粘土などに、鉄分が殻のように巻き付いてできたと考えられる。鉄サビの固まりのような色で、ほぼ丸く、ピンポン玉からこぶしほどまでの大きさがある。
 振ると音がすることから「鈴石」と呼ばれるようになった。全国でも同様のものは、岐阜県の岩壷、奈良県の鳴石があげられる。
 中国の漢方では「石薬」として不老長寿の薬とされ、正倉院にも納められていた。
 名寄(なよろ)の由来は、アイヌ語で川のそばの国「ナイ・オロ・プト」がなまった「なよろ」からきている。語源のとおり、名寄市は西に天塩川(てしおがわ)、東に名寄川が流れている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/2/27


飯田城(長姫城) Iida-jou(Osahime-jou) 

Jp

 飯田城(いいだじょう)は、天竜川の支流で、長野県飯田市内を流れる松川と野底川に挟まれた河岸段丘の先端部を利用して築かれた城である。
 長姫城の別名を持ち、本丸、二の丸、三の丸の各郭間に堀切を設けた連郭式の平山城であった。
 室町時代の建保年間(1213~1218)に、この地の地頭に任じられた坂西長由(ばんざいながゆき)によって築かれたとされている。
 その後、何度かの改築を受けつつ、信玄率いる武田軍と信長率いる織田軍の戦闘となった「下伊那侵攻」において、武田方の中核として機能した城であり、何人もの城主を経ながらも、戦国乱世から明治維新まで存続した下伊那地方唯一の城だった。
 現在も残る城の遺構はわずかであり、本丸があった場所には長姫神社が鎮座し、深い堀切と石塁、土塁を垣間見ることができる。
 また、宝暦四年(1754)建立の、門全体が紅殻で赤く塗られた通称「赤門」と呼ばれる桜丸御門が県合同庁舎前に移築保存されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/18


桧洞丸 Hinoki-bora-maru Mt. Hinokiboramaru

Jp En

 桧洞丸(ひのきぼらまる)は、神奈川県相模原市津久井町~足柄上郡山北町にそびえる標高1601mの山である。
 丹沢山塊では最高峰・標高1673mの蛭ヶ岳に次ぐ標高を持つ。また、丹沢山地西部に位置し、最も奥深い山地の核心部にあるが、現在では登山コースが整備され、迷うところや危険箇所はない。
 桧洞丸の名は、南側の玄倉川の支流の沢の名を桧洞と言い、その源頭にある山であった事が由来とされる。
 山頂付近はブナの原生林に包まれ、ブナの若葉の黄緑と幹の白い斑紋とのコントラストが美しい。ブナ林は神奈川県の美林50選にも選ばれている。南面にシロヤシオツツジの群落地があり、5月の週末にはシロヤシオツツジを楽しむ人で渋滞が起きる。
 桧洞丸は、豊富な自然を誇る、丹沢屈指の人気の山である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/11


親鸞 Shinran Shinran

Jp En

 親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。
 承安三(1173)年、京都・日野に誕生。九歳から二九歳まで、比叡山にて堂僧として修行を積む。その後、浄土宗開祖・法然の門弟となり、「他力念仏」の道を極めた。
 専修念仏の弾圧により、法然・親鸞ら八名が流罪となる。法然と生き別れした親鸞は、越後で俗名を名乗って暮らした。
 赦免の後、関東の常陸(現・茨城県)に移り、法然の教えを土台に、約二〇年間に及ぶ伝道布教を行った。親鸞は権力を持たずに、非僧非俗の立場を貫いた。
 帰郷し、主著『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)を初め、多くの書物を仕上げた。浄土真宗の核が完成し、様々な継承・発展を遂げた。口承の書として、『歎異抄』が有名である。
 弘長ニ(1262)年、九〇歳で往生。没後に皇室から見真大師の諡号を贈られる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/22


問屋場 Toiya-ba Toiyaba

Jp En

 問屋場(といやば)は別名、駅亭(えきてい)や伝馬所(てんましょ)とも呼ばれる。
 江戸時代に街道の宿場で、幕府の公用旅行者や大名が使う馬の手配、次の宿場までの荷物を引き継ぎ手配、幕府公用の荷物や書状などを送る飛脚の手配といった数々の通信業務の他、宿場保護を行う助郷賦課といった仕事を担う宿場の中核であった。
 業務の主宰を問屋(といや)と呼び、村落の名主とされる人物があたり、補佐を行う年寄(としより)や、事務を行う帳付(ちょうづけ)、参勤交代の大名行列などを宿場の出入り口で迎える迎役(むかえやく)、荷物の振分けを行う馬指(うまさし)などの役職があった。
 通常、交代で勤務をするが、大名行列などがあるときには全員が勤めることになっていた。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/12


札内岳 Satsunai-dake 

Jp

 北海道の中央南部を南北に連なる日高山脈。その山脈の中核をなし、日高随一の秀峰とも称されるのが札内岳だ。
 その標高は1980m。日高の最高峰、幌尻岳に次ぐ高さで、その頂上からの眺めは日高の展望台の名に違わぬものである。
 十勝川の一大支流である札内川の源流でもあり、その周囲は今も深い自然に取り囲まれ、札内岳を含む上流域はアイヌの人々ですら、足を踏み入れることは少なかった。
 それだけに、この山の頂を目指すことは苦労の連続となる。
 この札内岳を含め日高の山々の多くには、登山道といったものが存在しないのだ。そのため、頂を目指すのに必要不可欠なランドマークである沢や滝をいくつも乗り越えていく必要がある。
 また、今だなおヒグマの存在が色濃い地域でもあるため、そういったことにも充分注意を払う必要がある。
 それだけの苦労と労力を駆使して立った展望台からの眺めをどう評すればいいのか。
 この山の頂を目指すものだけの贅沢な悩みだ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/3/5


島原城 Shimabara-jyou 

Jp

 島原城は、寛永元(1624)年、松倉豊後守重政が7年の歳月をかけて完成させた。
 五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城。それ以来約250年間、4代19氏の居城としてきたが、明治の御一新で解体された。
 石垣は緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、築後380年を経た今もびくともしない。突角が13箇所見られ、防衛上の死角をなくす為だけでなく、城に権威を与え、またそれが美観を醸し出している。
 現在の島原城は昭和39(1964)年の建築で、大正末の島原城絵や藩日記記録などを元に築城当時のように復元されたものである。年間約30万人が訪れる島原観光の名所となっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/2/21


博多どんたく Hakata-dontaku 

Jp

 博多どんたくは、福岡県福岡市にて毎年5月3日と4日に開催される祭りである。
 どんたくの語源はオランダ語で、休日という意味である。よく使われる「半ドン」も、半分ドンタクが省略された言葉である。
 筑前国続風土記によると「松ばやし」という祭りの始まりが、今から約800年前の治承3(1179)年であると記されている。
 どんたくの名称は、明治時代に一時禁止されていた松ばやしを復活させる際に使われた。
 現在では出場者約3万人、見物客約200万人で、ゴールデンウィーク期間中、日本で一番の祭りといわれるようになった。
 博多どんたくの起源であり中核といえる博多松ばやしは、選択無形民俗文化財とされている。
 博多どんたくは、年に1度の無礼講であり、見るものに勇気を与えてくれる祭りである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数9件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter