NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/29


天念寺耶馬 Tennen-ji-yaba 

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 天念寺は、六郷満山の中山本寺(なかやまほんじ)で、養老二(718)年に仁聞菩薩によって開基されたと云われる。平安・鎌倉時代には他の寺院と同様に修験と祈願の寺院として繁栄。鎌倉時代の元寇の際には、満山寺院の僧を集めての戦勝祈願の法要が盛んに行われたとも伝えられている。現在でも六郷満山古来の正月行事である「修正鬼会」が受け継がれている。
 天念寺の前を流れる長岩屋川には川中の巨岩に不動三尊が刻まれているが、この川は幾度となく氾濫を繰り返したため、水害除けに刻まれたと伝えられている。
 このように天念寺周辺は風雨などで浸食された奇岩・巨岩がそびえ立つ景勝地で、その美しさから「天念寺耶馬」や「都合耶馬」と呼称され、人々に広く愛されている。耶馬と言われる様に、木々の上に突き出た岩場を見ると、まるで馬が暢気にしゃがんでいるかのような姿が浮かんでくる。
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2008/9/11


佛山寺 Bussan-ji 

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 大分県由布院の佛山寺(ぶっさんじ)は、明治の廃仏毀釈が行われるまでは宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)またの名を六所宮(ろくしょぐう)と一体になって栄えた古刹である。
 本尊は由布岳の観音菩薩。かつて湖であった湯布院を盆地に変えたと伝えられる宇奈岐日女と習合していた。
 寺伝によると康保年間(964〜968年)、聖空上人の開山と云われ、当時の堂宇は由布岳の中腹にあり天台宗であった。その後、江戸時代に臨済宗となって現在の地に移転した。
 全盛時には10ヶ所の末寺を有した湯布院を代表する中心的寺院で、今も境内には青面金剛塔や金光明王塔が竹林や大杉の合間に建ち、山門、本堂、庫裡がすべて落ち着いた雰囲気を保っている。平成六(1994)年の火災で本堂を焼失したが、再建され現在に至る。
 また、500メートル程離れた金鱗湖に浮かぶ鳥居はこの佛山寺にあったもので、廃仏毀釈に伴い天祖神社付近の湖面に移されたものである。
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2008/7/10


本場鶴崎踊大会 Honba-tsurusaki-odori-taikai The Tsurusaki Odori Festival

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 大分県大分市の鶴崎で毎年旧盆過ぎの土日に行われる「本場鶴崎踊大会(ほんばつるさきおどりたいかい)」。踊り子2千人の豪華絢爛な踊りが二日間に亘って繰り広げられる。
 この踊りは永禄年間(1558~69)に始まり、四〇〇年近い歴史と伝統を持ち、国の無形民俗文化財に指定されている。
 時の豊後国守、大友宗麟(おおともそうりん)が政を省みず酒に溺れていたことを諌めるために、重臣の戸次鑑連(とべあきつら)が京都から芸能者を呼んで踊らせたのが始まりと伝えられている。
 鶴崎踊りは、しなやかで優雅な「猿丸太夫(さるまるだゆう)」と、テンポの良い軽快な、大分の代表的な「左衛門(さえもん)」の二つの踊りから成り立つ。笛や胡弓などの囃子と口説きに合わせ、各団体の踊り子たちが、それぞれ趣向を凝らした揃いの衣装を身にまとい、七重八重の輪になって踊る。その華やかな夜の絢爛絵巻に心奪われる夏の夜である。
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2008/6/20


九重山 Kujuu-san 

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 九重山(くじゅうさん)は、大分県玖珠郡九重町から竹田市にまたがる、火山群の総称である。
 一帯には1700m以上の山が10座、1000m以上の山が40座あり、九州本土最高峰である標高1791mの中岳が存在し、九州の屋根とも言われている。
 主峰は標高1787mの久住山であり、日本百名山の一つに数えられ、周辺は阿蘇くじゅう国立公園に指定されている。
 西部には久住山をはじめとする久住山系の山々が連なり、広い坊がツルの草原をはさんだ東側の対面に、大船山を中心とする大船山系の山々が並んでいる。
 ほとんどの山がトロイデ型の休火山であり、多くが草原で覆われ、樹木は少ない。いたるところにミヤマキリシマの群落があり、コケモモも多く、いずれも国指定の天然記念物となっている。
 九重山は、日本を代表する広大な火山群である。
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2008/5/2


府内城(大分城) Funai-jou(Ooita-jou) 

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 府内城(ふないじょう)は、大分県大分市荷揚町にある城である。別名、大分城(おおいたじょう)とも呼ばれており、県の史跡に指定されている。
 慶長二(1597)年、石田三成の妹婿である福原直高により築城された城で、現在の大分市街の中心に位置している。
 その後、領主が早川長敏・竹中重利と代わり、竹中重利の時に四重の天守閣と城下町が完成した。
 二層櫓と白亜の土塀が本丸と二の丸に立ち並ぶ城で、江戸時代は府内藩2万石の藩庁となっていた。
 現在、城跡は大分城址公園となっており、本丸跡北西隅に人質櫓、西の丸に宗門櫓が現存している。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、北の丸と西の丸を結ぶ廊下橋が復元されている。
 府内城は、大分を象徴する、長い歴史を誇る城跡である。
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2008/4/11


花台 繧繝(うんげん)縁二紋 Hanadai Ungenfuchi-nimon 

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 昨今、日本の家屋は洋風嗜好に押されつつあるが、そんな中に品よく、ワンポイントとして和の装いがあったらどうだろうか。
 「花台 繧繝(うんげん)縁二紋」は、そうした希望を叶えてくれる素敵なアイテムだ。
 本来は花瓶や置物の下に敷く木の板や台であり、伝統の床の間を飾ってきたものであるが、それを縦43cm、横26.5cm、厚さ4.5cmの、小さな畳にしたものである。
 お雛様の台などにも使われている、絹糸を使用した色鮮やかな繧繝縁を畳べりに用いて高級感を演出すると共に、畳表には龍鬢(りゅうびん)表を持ってくることで通常の畳と遜色ない雰囲気を保っている。
 赤を基調とした鮮やかな畳べりと落ち着いた小麦色の畳表は、和洋を問わず、部屋のアクセントとして活躍してくれることだろう。
 上に乗せるものがなんであっても、何か特別なもののような印象を与えてくれる、魅力的な一品である。
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2008/4/9


いぐさ製センターラグ 花満月 Igusasei-Sentaa-ragu Hanamangetsu 

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 伝統の日本家屋における畳敷きとはまた違った魅力を放つフローリングの床。
 艶のある、清潔感漂う床面は日本における新たなライフスタイルの象徴とも言えるだろう。
 そこに慣れ親しんだ畳が持つ和のスタイルを持ち込み、フローリングの部屋にさらなる落ち着きとくつろぎをもたらせないかと考えられたのが「いぐさ製センターラグ 花満月」である。
 191×250cmの手ごろなサイズで敷く場所を選ばず、中心には「花満月」をイメージした円が描かれた大胆なデザインとなっており、どこに敷かれてもそこが団欒の中心となるような印象的なものとなっている。
 色合いは、高級備中染めによる趣ある黒といぐさの持つ地の色合いとを花満月を中心に四分割した対照的なもので、直線と曲線が巧みに融合して見事な清潔感を表している。
 伝統の素材が持つ光沢ある仕上がりは、どんな部屋にもすぐに馴染み、そこに住まう人々にくつろぎを提供してくれることだろう。
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2008/3/24


亀塚古墳 Kameduka-kofun Kamezuka Tomb

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 亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市坂の市の町を流れる丹生(にゆう)川河口近くの左岸に位置する、丹生台地の東端にある古墳だ。
 前方部を南に向ける前方後円墳で、古墳時代中期の五世紀前半に築かれたものとされる。また、周辺には別な古墳もいくつかあり、一帯は亀塚古墳群としても認知されつつある。
 墳丘は三段に築成され、全長は一二〇m、後円部径六四mを誇り、県下最大の前方後円墳として知られている。
 地域一帯は、古くは豊後水道で縦横に船を操り活躍した海部民(あまべのたみ)の支配地域であったとされ、その首長が埋葬されていたと考えられている。
 平成八(1996)年に国の史跡に指定、同時に発掘調査も開始され、まが玉や土器、ガラス玉、剣、方位磁石など百五〇点以上の出土品があった。
 調査後は公園としての整備が進められ、円筒埴輪がめぐらされるなど、古墳も往時を髣髴とさせる姿へと復元され、人々の憩いの場所になっている。
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