NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/18


松橋焼 Matsubase-yaki 

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 熊本県宇城市(うきし)の松橋町で生まれた陶磁器として知られる「松橋焼(まつばせやき)」は、江戸時代初期から伝わる焼物である。
 文禄・慶長の役(1592~1598)の際、加藤清正・細川三斎らが朝鮮から陶工を呼び寄せ、熊本の近世の窯業が始まったといわれている。
 松橋町の松橋焼も、江戸時代初期から中期にかけて盛んに焼かれ、松橋の土を焼いた素朴な風情は当時の茶人達に好まれたと伝えられる。しかし、当時のものは散逸してほとんど伝わっていない。
 昭和四七(1972)年、陶芸家を父に持つ原構成が、松橋焼の再興と新たな気を吹き込むため現在地に「構成窯」を築窯。松橋焼は、松橋の鉄分を含む砂気のある粘土と青磁釉でつくられ、主に食器類が生産されている。
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2008/2/25


田村耕一(人間国宝) TamuraKouichi 

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 たむら・こういち。大正七(1918)年六月二一日~昭和六二(1987)年一月三日。日本の陶芸家で、鉄絵の変化を取り入れた絵付け技術が高い評価を得た。
 雛人形師だった田村林次の次男として佐野市に生まれる。昭和一六(1941)年、東京美術学校図案科を卒業後、大阪府商業学校教諭として赴任。昭和二一(1946)年、京都の松風研究所に入所。この研究所の顧問で大先輩の富本憲吉から直接指導を受け、その体験が後の創作への考え方や工芸観に大きな影響を与えることとなった。
 昭和二三(1948)年に郷里の佐野へ帰り、赤見窯の創業に参画。昭和二八(1953)年から自宅に四袋の登り窯を築き、本格的な作家活動に入った。
 酸化鉄を用いて釉下に文様を表す鉄絵を得意とし、また青磁銅彩など磁器においても独自の発想にて新境地を切り拓いた。一貫して鉄釉の変化を取り入れた絵付けを中心に展開し、昭和六一(1986)年に重要無形文化財「鉄絵」の保持者(人間国宝)に認定された。
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三浦小平二(人間国宝) MiuraKoheiji 

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 みうら・こへいじ。昭和八(1933)年三月二一日~平成一八(2006)年一〇月三日。日本の陶芸家。
 佐渡の小平窯という無名の窯元、三浦小平の長男として誕生。昭和二六(1951)年、父の勧めで入学した東京芸術大学在学中に陶磁器の道に入り、卒業後は青磁の伝統技法を学んだ。
 数回にわたり中近東や東アフリカ、アジア諸国を巡り、各国の磁器の研究や自らの作品づくりに励んだ。特に、古代中国の皇室御用達であった南宋官窯に強い影響を受け、これを目標としながら研究を重ねた。
 その結果、佐渡の赤土を下地とした器に青磁釉(せいじゆう)をかけるという独特な技法を開発。さらに、青磁の一部に豆彩(とうさい)の技法を用いて人物や風物を絵付けして作風を確立した。器そのものの形にも感性が反映され、その現代的な感覚は、陶芸の世界に新風を巻き起こして注目された。
 平成八(1996)年に紫綬褒章を受章。平成九(1997)年には重要無形文化財「青磁」保持者(人間国宝)に認定された。
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2008/1/24


清水卯一(人間国宝) ShimizuUichi 

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 大正一五(1926)年、京都市東山区生まれ。陶芸家。
 昭和一五(1940)年、地元陶芸家で同じく人間国宝の石黒宗麿(いしぐろむねまろ)に師事し、鉄釉に魅せられ中国陶芸を学ぶ。
 さらに国立京都陶磁試験場で学び、京都市立工業研究所窯業部にて助手として経験を積んだ後、京都の自宅工房において陶芸活動に専念した。
 日展、現代日本陶芸展、日本伝統工芸展などにおいて、数々の賞を受賞。その非凡なる才能が開花。釉薬と土を情熱的に研究をし、徐々に青磁の作品を手掛けるようになる。
 昭和四五(1970)年、京都から滋賀県志賀町に工房を移して蓬莱窯(ほうらいよう)を築き、そこから独創的な青磁作品を数多く生みだしていく。
 昭和六〇(1985)年四月一三日、人間国宝の認定を受けた。
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2008/1/17


小杉焼 Kosugi-yaki 

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 小杉焼(こすぎやき)は富山県射水市で焼かれる陶器。以前は射水郡小杉町という地名だったことから、それにちなんで名付けられた。
 江戸時代後期に地元の陶工、高畑与左衛門が開窯した。与左衛門は相馬をはじめ、瀬戸、美濃、京都など各地の窯元を訪ねては研鑽を積み、帰郷して陶窯を開くと、酒器、茶器、花器、祭器などあらゆる生活雑器を焼いた。
 中でも、銅や鉄の釉薬(ゆうやく)を用いて滑らかな艶を持つ、瓢徳利(ひさごとっくり)や鴨徳利が特に知られている。また、青磁(せいじ)も多く焼かれ、その質の良さから「小杉青磁」と呼ばれ、高く評価された。
 しかし、明治時代後期に衰退して廃窯。昭和時代に二回、再興が試みられるも、第二次世界大戦の勃発で復活には至らなかった。その後、昭和四五(1970)年に池上栄一氏が再興に成功。「小杉焼栄一窯」と命名し、伝統の中にも現代風のデザインを採り入れた作品を焼き続けている。「これまでの小杉焼にない新しい色を出したい」と、氏は情熱を燃やす。
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2008/1/15


青磁釉 Seijiyuu 

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 澄み渡る空のような、透明感のある薄青色に焼きあがる青磁は、中国で生まれ、人々を魅了し、日本でも古来より重宝されてきた。
 青磁の青色を出す青磁釉の原料になるのは灰で、中国の陶工が、焼成中の器の表面に燃料用の薪の灰が降りかかって化学作用を起こしたことからヒントを得た。と伝えられている。
 原料になる植物灰に、僅かに鉄分を加えた釉薬を使い、高い温度で還元焼成したものだけが青磁と呼ばれるという。釉薬に含まれる鉄分の加減で色が複雑に変化するため、安定した色を出すのは非常に難しいとされているが、それはまた作品の面白さにも繋がっている。産地や時代ごとに色合いに変化が見られ、青磁の奥深さが感じられる。
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2007/10/23


聞香炉 Monkouro 

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 聞香炉(もんこうろ)は、香道で用いる、香木を加熱し、香気を発散させる目的で用いる、蓋を持たない器である。
 火気を使用する関係上、材質には不燃性、耐熱性が求められる。そのため、陶磁器や金属、石材などで作られていることが多い。
 香道は、室町時代におきた日本の伝統文化であり、仏教と共に日本に伝えられた香は、平安時代には個人の趣好・知的感覚により薫物が作られ、室町時代・東山文化隆盛の頃に、香木を使用する聞香形式が整え出された。
 通常一対で用いられ、青磁、染付等の少し大きめの蕎麦猪口のようなもので、高さは6~8cm、直径は6~7cm、底には3つの高台が付いている。
 聞香炉は、香道において、自然を感じ、四季を想い起こさせる香りの世界を堪能するための、優雅で高尚な香道具である。
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2007/7/25


青磁 Seiji Celadon (Seiji)

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 青磁(せいじ)は、紀元1世紀から中国で焼かれてきた歴史ある陶器である。
 元々の起源は、およそ3500年前の殷代中期に生まれた「原始瓷器」と呼ばれる中国の本格的施釉陶器に始まる。ガラス質の釉薬(ゆうやく)の中の鉄分が、炎の還元作用により青とも緑とも呼べる奥深い色に発色する青磁は、技法が確立された後漢の紀元1世紀から営々として焼き続けられてきたのである。
 青磁は諸外国の憧れの的になり、9世紀頃から日本を始めとして朝鮮半島、東南アジアにも盛んに輸出されたという。特に日本では、中国への憧憬から積極的に収集、模倣され、技法も飛躍的に発達した。
 青磁の茶碗でお茶を飲むと、お茶の色が鮮やかになることから、日本では煎茶の茶道具として一般的である。昔から茶人や大名・寺院などで大切にされてきたという。
 澄み切った海のような青と、うっすらグリーンがかった上品な色合いの青磁は、国境を越えて人々の心を捉えて放さない。
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