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2007/8/9


中馬街道 Cyuuma-kaidou The Chuma Kaido Road

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 愛知県豐田市足助町新町を走る国道366号線。江戸時代この付近の道は、中馬街道と呼ばれていた。中馬街道は、三河から足助を通り、信州の産物を名古屋・京都・大阪へ運ぶ最短路の物資輸送の街道として栄えた。
 信州の馬稼ぎ人たちの組合「賃馬」「中継馬」が中馬の語源と言われている。
その名の通り、「入馬千駄出馬千駄」とうたわれ、最繁栄時には約七千数百頭の馬が活躍していたと言われている。
 明治後半、中馬街道の中継地として栄えていた足助も、中央線の開通により、宿場町としての機能も失われていった。
 今でも、足助町の中心部には江戸時代の町並みが随所に残っており、中央を流れる巴川には、当時の道が保存され、散策することができる。
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2007/6/22


小京都 Shou-kyouto Shokyoto

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 小京都(しょうきょうと)は、文化のみならず政治や経済の中心であった京都を手本に、室町時代以降の大名が作った各地に残っている町並み。
 それぞれの小京都は、京都出身者の故郷への思いを求めたりしたことや、三方が山に囲まれていたり、町に川が通っていたり、盆地であるといった地形の類似性、京都から分霊した神社がある、といった事があげられる。
 近代では町並みやお祭り、工芸、京都を彷彿させる景色など、京都に似た雰囲気が残り、訪れた人々の京都への思いを重なり合わせたことによって小京都と呼ばれていくようになっていった。
 代表的なものとしては、地方の有力者が京都に憧れて整備された山口県の一部や、飛騨高山、知覧、中村、また地形から城や城下町が作られていった萩や備中高梁、足利などがある。
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2007/6/21


岡崎宿 Okazaki-juku Okazaki-juku

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 岡崎宿(おかざきじゅく)は、東海道五十三次、三八番目の宿場。現在の愛知県岡崎市である。
 五万石の城下町であり、宿場町としての規模も大きく、矢作川と乙川が合流する地域だったため「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」という唄が歌われていたほど水運の要の町であった。
 江戸時代には、徳川家康の生誕の地でもあったため別格の扱いを受け、代々、大名の中でも特別な役職を担う譜代大名を置くことでもそれが伺える。
 天正一八(1590)年に岡崎城主となった田中吉政は岡崎の郊外にあった東海道を城下町の中心を通るように変更。城の防衛のため、「二十七曲」と言われる多くの曲がり角がある道路整備を十年かかって造り上げた。
 この二十七曲は現在にも岡崎の町に残っており、石碑にはこの曲がどのように市内を通っているのかを見ることができる。
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土山宿 Tsuchiyama-juku Tsuchiyama-juku

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 土山宿(つちやまじゅく)は、東海道五十三次、四三番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市、旧土山町にあたる。
 江戸から向かう道中の難所、鈴鹿峠を超えたところに設けられていた。
 「坂は照る照る・鈴鹿は曇る・あいの土山雨が降る」と唄われているように雨が多く、安藤広重の残した「土山春之雨」には絶え間なく雨の降り続く木立の間を、旅人の列が肩を濡らしながら歩く様が表現されている。
 実際には、手前にあたる坂下宿の方が雨量は多かったようだが、鈴鹿峠を境に天候が変わる様子を表現したと推測される。
 現在は当時の旅籠跡や、東海道一里塚跡、本陣跡、松並木など、当時を偲ばせる史跡が複数残されている。
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大津宿 Ootsu-juku Otsu-juku

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 大津宿(おおつじゅく)は、東海道五十三次の五三番目、中山道六十九次の六九番目に位置する、京への長き道の最後の宿場である。現在の滋賀県大津市。
 慶長七年に本陣が置かれたため発展に貢献し、町数一〇〇ヶ所、人口一八〇〇〇人と非常に大きい上、琵琶湖の物資が集散するため湖上交通でも要であり、宿場としても本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠七一軒が並ぶ最大規模の宿場であった。
 現在では、当時の賑わいもひっそりと息をひそめ、石碑が当時の案内を残すにとどまっている。
 安藤広重の「東海道五十三次・大津」では、のどの渇きを癒す茶店が描かれており、この茶店にあった「走井の清水」で知られた井戸も現在の月心寺に残されている。
 また、絵の中に登場する走井餅(はしりいもち)は、こし餡がやわらかい餅に包まれた細長くお菓子で、現在も名物としてファンが多い。
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2007/6/15


城下町 小幡 Jouka-machi Obata Castle Town of Obata

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 城下町・小幡(おばた)とは、群馬県甘楽郡甘楽町小幡にある、小幡氏等が統治した2万石の小さな城下町の事である。
 室町時代の小幡氏にはじまり、織田氏、松平氏の支配下に栄えてきた。
 元名元(1615)年、織田信長次男・信雄を藩祖に、8代152年に渡って統治された。
 街の中央には日本名水百選に選定される雄川堰が流れ、その堰には桜並木が広がる。道路左側には蔵屋敷が続き、幅14mの中小路には武家屋敷の白壁がまぶしい。
 毎年4月の第3日曜には、城下町小幡さくら祭りが開催される。
 鎧・兜に身を固めた馬上の大将に鉄砲隊、女武者などが町中を練り歩く武者行列は壮観で、お祭り広場では火縄銃実演や下仁田荒船太鼓の演奏なども行われる。
 小幡は、江戸時代の面影を強く残している城下町である。
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2007/6/14


吉田宿 Yoshida-juku Yoshida-juku

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 吉田宿(よしだじゅく)は、東海道五十三次の江戸から数えて三四番目の宿場であり、現在の愛知県豊橋市の界隈をさす。
 東隣のニ川宿とは、一里二〇町、西隣の御油宿とは二里二〇町離れている。
 吉田藩の所領であり、吉田城城下町と、湊町をあわせた宿場であったためか、たいへん華やかな宿場で、飯盛女と呼ばれる宿場女郎も多く「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」と唄われている。
 また、江戸時代に吉田神社の例祭であげられる花火は吉田の花火として有名であった。
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藤川宿 Fujikawa-syuku Fujikawa-shuku

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 藤川宿(ふじかわしゅく)は、東海道五十三次のうち第三十七之次である、徳川以前の鎌倉時代から続く古い宿場町であった。
 現在の東海道すなわち国道一号線は、名鉄名古屋本線を挟んで町の北側を通っており、旧道である藤川の町は思いのほか静かだ。国道一号から分岐する所には、宿場の入口を示す「棒鼻」が残っている。
 藤川は古い宿場町の保存に積極的で、現在資料館となっている脇本陣跡の門や秋葉山常夜灯、連子格子の町家など、当時を偲ばせる建造物も少なくない。藤川駅の南側に藤川小学校があり、その前に西の棒鼻がある。東の棒鼻からおおよそ1キロメートル程だ。
 そこから少し先に「塩の道」であった吉良街道(きらかいどう)の分岐があり、碑が建っている。左手に分かれるのが吉良街道で当時の松並木が残っており、また右手の東海道にも藤川の松並木があり、国道一号への合流まで続いている。
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