三納城跡 Minoujou-ato
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三納城(みのうじょう)は宮崎県西都市の西方の台地に建てられていた難攻不落の城であった。
築城に関しての正確な記録は残っていないが、南北朝時代の建武二(1335)年、伊豆より赴いた伊東祐持が都於郡(とのこおり)を治めていた頃、支配下においていた四八の城の一つで、飯田備前守が城主であったという記録が残されている。
城の西方は断崖絶壁、南側には三納川が流れ、北方は山地に接する堅固な構えを誇り、南方には曲折登坂の追手口を配していた。さらに高台に本拠地をかまえ周りには防御のための壕や堀が設けられていた。
天正五(1577)年には島津家との争いに敗れて豊後に逃げ落ちた伊東氏の最後の砦となり、今では周りを樹木が覆っている。
築城に関しての正確な記録は残っていないが、南北朝時代の建武二(1335)年、伊豆より赴いた伊東祐持が都於郡(とのこおり)を治めていた頃、支配下においていた四八の城の一つで、飯田備前守が城主であったという記録が残されている。
城の西方は断崖絶壁、南側には三納川が流れ、北方は山地に接する堅固な構えを誇り、南方には曲折登坂の追手口を配していた。さらに高台に本拠地をかまえ周りには防御のための壕や堀が設けられていた。
天正五(1577)年には島津家との争いに敗れて豊後に逃げ落ちた伊東氏の最後の砦となり、今では周りを樹木が覆っている。
- 住所
- 881-0101 宮崎県西都市大字三納
- 名前
- 三納城跡