NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/2


母智丘神社 Mochio-jinja 

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 母智丘(もちお)神社は宮崎県都城市にある神社。創建は定かでない。祭神は豊受姫神。「巨石群」で知られており、境内には至る所に巨大な石がごろごろとある。
 江戸時代には「稲荷石」と「ほら穴」が知られていたという。明治3年、三浦通庸が母智丘に参拝したおり、荒廃をみかねて再興を行った。再興工事中、火山の噴火によって飛ばされたと思われる巨石群が発掘された。石器時代にはすでにこの巨石群があったとされ、信仰の対象、もしくは石採取場として、このあたりで生活していた人類と深く結びつくものでないかとされている。
 その中でも「陽石」「陰石」と呼ばれる世にもめずらしい巨石が祀られており、「稲荷大石」とともに信仰の対象となっている。
 参道の桜並木は「日本の桜名所100選」のひとつである。
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2008/4/25


手水鉢 Chozu-bachi 

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 手水鉢(ちょうずばち)とは、神前・仏前に向かう際に水で身を清め、心のけがれを払う為に備えられている石の器である。
 神社などに設けられている姿を目にするが、平安時代(794~1185)に、始まった茶の湯に取り入れたのが最初とされ、石と水の美が現在でも日本庭園に欠かせないものとなっている。
 低い姿勢で使う蹲踞手水鉢(つくばいちょうずばち)、立ったままで使う立手水鉢(たちちょうずばち)、建物の縁先に配される縁先手水鉢(えんさきちょうずばち)などがある。
 デザインも石本来の姿を使用したものから、作りこまれたものなど様々で、創作手水鉢としては立方体の銀閣寺型、やわらかい丸みのある鉄鉢型・菊鉢型・銭鉢型など、モチーフとなっている対象物も意外性に富んでいて面白い。
 苔が付きやすい石を敢えて材料としたり、水滴により琴のような音を発生する水琴窟(すいきんくつ)の仕掛けを込めたりと、様々な趣が示されている。
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2008/3/18


日向はまぐり碁石 Hyuuga-hamaguri-goishi Hyuga Clam Go Stones

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 日向はまぐり碁石(ごいし)は日向地方で採取されるはまぐりの貝殻を原料に作られる碁石のことである。
 碁石は中国から伝わったものであり、明治以前、碁石製作には石や木、宝石類が使用されていた。
 明治に入り大阪で三河地方の桑名のはまぐりを材料に碁石製造が盛んとなった。しかし、桑名のはまぐりが品不足となり、日向地方の海岸によいはまぐりがあることが分かり、その後、大阪では日向地方のはまぐりを材料に碁石が作られるようになった。
 明治四一(1908)年頃、日向地方出身で、大阪で碁石作りの修行をしていた原田清吉氏が大阪から仕事仲間の小川栄次郎を呼び寄せ、日向地方で碁石作りをはじた。二人の努力の結果、碁石作りは日向地方の地場産業として大きく成長して行ったのである。
 現在では、日本で唯一のはまぐり碁石の産地であり、長年の間に築かわれた碁石作りの技術は世界からも高い評価を得ている。
 日向はまぐり碁石は、その手触り、色合い、光沢、形、どれをとっても最高級の碁石である。
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2008/3/4


紫雲石硯 Shiunseki-suzuri Shiunseki Inkstone

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 紫雲石硯(しうんせきすずり)は、岩手県の一関市や大船渡市で、独特の風合いを持つ紫雲石を用いて作られている硯である。
 その起源は、鎌倉時代に旅の僧侶が、大船渡市にある長安寺に立ち寄った際、近くを流れる川底で紫雲石を見つけ、その石を硯として使用したのが始まりといわれている。その後、僧侶は硯を鎌倉へ持ち帰り、時の将軍に献上。その美しさから紫雲石硯と命名されたという。
 材料となる紫雲石は、四億年以上昔の北上山系の地質から産出される輝緑凝灰石で、小豆色にも似た赤紫をして、雲状の斑紋や緑の斑点があるものが多く見受けらる特徴をもつ石である。
 石の持つ優美さや滑らかさに加え、石の表面の凸凹を表す鋒鋩(ほうぼう)が緻密で墨おりが良く、硯材として最適とされている。
 一時は、機械彫りの大量生産の硯が普及し、手彫りの紫雲石硯はその生産に衰えが見えたが、戦後に入って専門家などに再び着目され、銘品としての名に違わぬものを、今も作り続けている。
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2008/1/8


落合の石畳 Ochiai-no-Ishidatami Stone-paved Road in Ochiai

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 落合の石畳(おちあいのいしだたみ)は岐阜県中津川市落合に残る石畳である。
 江戸時代の五街道、中山道(なかせんどう)の落合十曲峠から馬籠宿にかけては急峻な山道の為、通行が困難であったことから石畳を敷き、整備が行われていた。文久元(1861)年、皇女和宮が降嫁した際改修したとの記録が残る。
 明治時代に入り、一部が工事のために剥がされ、一部は使用されなくなり放置されたため、旧状を留めたのは一部となったが、昭和六三(1988)年に修復工事が行われ、現在の840メートルの道が復元された。
 近隣には中山道の史跡である落合宿の本陣や大釜、島崎藤村の筆による「是より北木曽路」などが残り、古道の記憶を今に伝えている。
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2007/12/25


馬水槽 Basuisou 

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 人の波がなかなか切れない大都会の片隅に、赤い大理石で造られた、馬水槽(ばすいそう)と呼ばれる水槽が置かれている。
 東京の上水道育ての親と呼ばれる、中島鋭司博士が明治三四(1901)年に欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から当時の東京市に寄贈されたものだという。
 明治三九(1906)年、東京市役所前に設置されてから大正初期までは、実際に道行く馬車馬が水を飲む光景が見られたという。
 その後、震災などで各地を転々としたこの水槽だが、昭和三九(1964)年に現在の地に設置、「みんなの泉」という名前が一般公募によって名づけられた。
 上部が馬用、下部が犬猫など小動物用で、裏面に人間用の水飲み場もあるという。世界でも数少ない貴重な史跡は、区の指定文化財にも指定されている。
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2007/12/14


龍門司坂 Tatsumonji-zaka 

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 龍門司坂(たつもんじざか)は、薩摩の旧街道として知られる大口筋の一部で、全長が一、五キロメートルの坂道である。現在は約五百メートルが当時の石敷きで残されており、近世の交通を考える上で重要な道として考えられ、平成一八(2007)年に国の指定文化財となった。
 この坂道は寛永一二(1635)年に造られ、その後、元文六(1741)年には地元で採れる凝灰岩を利用して付近の山より切り出し、石畳を敷き詰め整備された。幅は広いところで七メートルほどあり、割合と広く感じられる。
 明治一〇(1877)年には、熊本へ向かう西郷隆盛率いる薩摩軍もこの坂を通ったといい、付近の人々が太鼓や三味線で送り出したといわれている。
 杉木立の中にある苔むした石畳にはたいへん風情があり、情緒たっぷりの坂道であることから、歴史の道百選にも選ばれている。
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2007/12/10


碁石山 浪切不動明王 Goishizan Namikiri-fudoumyouou 

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 碁石山(ごいしざん)は、香川県小豆郡小豆島町の岩窟内にある真言宗の寺である。小豆島八十八ヶ所霊場第3番札所とされる。
 開基は不詳で、伝説では行基菩薩によって開かれたと言われる。
 安永三(1774)年、下野国の人である一翁道夢居士が、この岩窟内で念仏を唱えながら入定したとされ、岩窟内には、祈願の為の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
 浪切不動明王(なみきりふどうみょうおう)は、この碁石山に安置されている本尊である。
 海難事故を防ぐ不動明王としてはるか昔より、漁師や海運関係者に広く信仰され、多くの危難を防いだと言われ、弘法大師も止錫したと伝えられる。
 1番札所の洞雲山、3番札所奥の院の隼山とともに、験者が修行した道場とされている。
 碁石山の浪切不動明王は、地元の人たちから浪切さんと呼ばれて親しまれている不動明王像である。
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