NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/20


御着城 Gochaku-jou 

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 御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市役所東支所の敷地内にあり、敷地内に城址公園として石碑が建てられている。
 茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣であった小寺政隆が永承一六(1519)年に築城した。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と共に播磨三名城といわれていた。
 以後三代六〇余年続いたが、天正七(1579)年、豊臣秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため攻撃を受け落城した。
 現在の御着城は、本丸中央を国道二号線が貫いており、周囲も宅地化している。支所の建物は城郭風になっており、その裏には空掘跡に天川橋が架けられている。
 昭和五二(1977)年からの発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばには大型や中型の堀や土塁が築かれ、本格的な縄張りが行われていた事が判明した。
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2008/4/22


道祖神 Dousojin Dousoshin Deity

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 道祖神(どうそじん、あるいはどうそしん)は、日本において古来より信仰されてきた神である。
 主に、集落の境や村内と村外の境界、道の辻や三叉路の脇に立てられている。
 中国から日本に伝来し、その周辺の守り神として、また、子孫繁栄や交通安全の神として信仰され、元々日本にあった民間信仰の神である岐(ちまた)の神と習合。さらに地蔵菩薩が伝えられると、地蔵信仰とも習合し、日本全国に広まっていくこととなった。
 その形は様々で、よく見られるものとしては自然の石をそのまま祀ったものや、その表面に碑文を刻んで石碑とした文字道祖神、男女一対の像が刻まれた双体道祖神、道教に由来する庚申信仰を元にし、青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られた庚申塔などがある。
 元々が決まった形があるわけではないので、地方色やそれを立てた個人色の強いユニークな形が刻まれているものが多いのも特徴であり、全国には九千基を越す道祖神が立てられているといわれ、まさに日本における八百万の神の代表格とも言える存在である。
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2008/3/12


高浜虚子句碑 Takahama-kyoshi-kuhai 

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 成田山新勝寺大本堂の後方に広がる、一六万五千平方メートルの大庭園、成田山公園には、様々な句碑や銅像がある。その中に高浜虚子(たかはまきょし)の句碑が建っている。
 俳人であった高浜虚子は、正岡子規に師事し、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌「ホトトギス」の発行を引き継ぎ、俳句の普及と後輩の育成に努めた。
 この公園には、もともと七代目市川団十郎とその父である六世団蔵の銅像があった。明治四三(1910)年、日本初の俳優の銅像として成田山公園に七代目団蔵が奉納したものである。
 しかし、銅像は昭和一八(1943)年の第二次世界大戦時に供出されたため、その代わりに八代目団蔵が、七代目団蔵の供養に加え、団蔵と交流のあった高浜虚子の句碑を建てた。
「凄かりし 月の団蔵 七代目」
 二三人の俳人と一緒に成田を訪れた高浜虚子が、明治三三(1900)三月号の文芸雑誌「ホトトギス」に、その時の様子を「成田詣」という題で記している。    
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2008/3/6


猿倉城跡 Sarukura-joushi 

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 猿倉城跡(さるくらじょうし)は、富山県富山市舟倉(ふなくら)にある城跡である。別名・船倉城とも言う。
 標高345mの猿倉山は、古来飛騨街道の要とされ、戦国時代には山頂に猿倉城が置かれた。
 天正年間(1573~1592)、郷士・島村丑之助、一説には寺島三八郎が城を構え、飛州の塩屋筑前守秋貞(しおやちくぜんのかみあきさだ)に代わって上杉氏家臣・村田修理亮(むらたしゅりのすけ)と戦ったとされる。
 飛騨への街道を押さえる要所で軍事拠点であったと思われるが、資料には相違があり、詳細は分かっていない。
 現在、猿倉山頂の城跡には、ヨーロッパの城を思わせる展望台の「風の城」が建っており、側には石碑が建てられている。
 猿倉城跡は、往時が偲ばれる、美しい風景の場所である。
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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/10/4


大間崎 Oomazaki Omazaki Cape

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 青森県下北半島をひたすら北上すると本州最北の町、大間町に着く。そして町のさらに最北端に大間崎(おおまざき)がある。
 「ここは本州最北端の地」と刻まれた石碑が建つ大間崎からは、晴れた日には津軽海峡の向こう、約一八km先の函館市街地まで見渡すことが出来る。その壮観な眺めから本州最果ての地を実感することができるだろう。また、北海道に沈み行く夕日はこの地ならではの絶景といえよう。
 大間崎はマグロの一本釣りでも全国的に有名で、岬にはマグロのモニュメントも建てられている。撮影スポットとしても人気がある。
 岬付近は公園として大規模に整備され、多くの観光客で賑わう。
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黄金崎 Kogane-zaki Cape Koganezaki

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 黄金崎(こがねざき)は、静岡県賀茂郡西伊豆町宇久須にある景勝地である。
 駿河湾に面した断崖「黄金崎」は、猫越火山流(ねっこかざんりゅう)が海になだれこんでできたもので、風化によって削り取られた岩肌が特色である。
 夕日を浴びて岬全体が黄金色に輝く西伊豆の名所で、海の展望のすばらしさと落日の美しさで知られ、春から秋にかけてはさまざまな花が咲き乱れる。
 夕日を受けて黄金色に輝くのは、風化した安山岩が黄褐色に変化した全国でも珍しい「プロピライト」のお陰であり、県の天然記念物にも指定されている。
 晴れた日には富士山も見る事ができ、他にも、文学碑、遊歩道、自生植物群などの見所が沢山ある場所となっている。
 黄金崎は、名前の通りの景観を誇る名勝地である。
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