NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/31


葛城山 Katsurag-isan Mt. Katsuragi

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 葛城山(大和葛城山)は、奈良県御所市櫛羅と大阪府南河内郡千早赤阪村にまたがる、標高959メートルの山である。
 金剛生駒紀泉国定公園内にあり、金剛山地において、金剛山と並ぶ主峰格である。
 葛城山の祭神は一言主神(ひとことぬしのかみ)。伝説によると、役の行者が葛城山から金峰山に橋を作っていた時、この神は容貌を恥ずかしがって夜間だけ手伝ってくれたという。
 四季それぞれの自然の美しい風物と、変化に富んだ登山コースは、ハイカーや登山者に人気がある。
 春のヤマツツジ、秋のススキで知られる高原状の山上台地は、山の形状がなだらかであるために、この付近を指して葛城高原と呼ばれている。
 葛城山は、四季折々の景観も美しい行楽地である。
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2007/10/22


村雲御所 瑞龍寺 Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Temple

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 日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)。今は滋賀県の八幡山の山頂にある。
 文禄五(1596)年、豊臣秀吉より切腹を命じられた、わが子秀次の菩提を弔うために、秀吉の姉、日秀尼(にっしゅうに)が創建したのが始まりである。
 この時、日秀尼は後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の地と瑞龍寺の寺号を賜るのであるが、その後も宮家や摂関家からの入寺があったため、門跡寺院となり、村雲御所とも呼ばれるようになった。江戸時代には、嵯峨から西陣に移り、今は西陣織会館前に「村雲御所跡」の碑が立っている。
 昭和三七(1962)年、この寺の復興に生涯をかけた一二世貫首・日英尼は、秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡への移転を決意し、現在の地に移った。
 遠くに鈴鹿連山の美しい山並み、南は近江の町並み、そして東には琵琶湖を一望できる。移築された本堂や庭園は、その後門跡たちの手によって整えられ、開かれた寺として、人々を迎え入れてくれる。
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2007/9/26


役小角 En-no-ozunu En no Ozunu

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 役小角(えんのおづぬ)は、修験道の開祖。山岳信仰による呪力の獲得、自然との一体化による即身成仏を説いた。日本的霊性の源流として、只ならぬ影響力を持つ人物である。
 舒明天皇六(634)年、大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市)、葛木山のふもとで誕生。独学で仏像を作り、梵字を書き始める特異な少年だった小角は、一七歳で家を捨て、葛木山での本格的な霊的修行に入る。
 仙人と遊び、仏や神を叱り飛ばし、鬼を従者として使う強者となっていった。神通力が朝廷に知られ、恐れられ、天皇の命令で伊豆大島へ流刑されたりした。
 晩年は、諸国を巡り、数々の霊山高峰を訪れた。現在、日本で霊山とされるほとんどの山が役小角の開山という伝説がある。六八歳の時、天井ヶ岳にて、多くの弟子達に見守られるなか、微笑み続けながら息を引き取った。
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2007/9/25


黒木御所跡 Kuroki-gosho-ato The Ruins of Kuroki Palace

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 黒木御所跡(くろきごしょあと)は、島根県隠岐郡西ノ島町別府にある後醍醐天皇の行在所跡(あんざいしょあと)と言われている場所である。
 元弘二(1332)年、二度の元寇(げんこう)によって力の衰えた鎌倉幕府への倒幕挙兵である元弘の変に失敗し、隠岐に配流となった後醍醐天皇の行在所と伝えられる。
 島前・西ノ島町の別府港に臨む天皇山という小高い頂きにあり、県の史跡に指定されている。
 その後、天皇は在島一年たらずで隠岐を脱出し倒幕に成功、建武の中興と呼ばれる親政を行った。
 天皇山の入口には資料館の碧風館(へきふうかん)があり、天皇に関する資料、伝承にまつわる文書、絵画などが展示されている。
 山頂には、天皇を祭る黒木神社と行在所跡の碑が存在する。
 黒木御所跡は、後醍醐天皇の不遇時代を偲ばせる史跡である。
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2007/8/1


色麻大滝 Shikama-ootaki The Shikama Otaki Waterfall

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 宮城・山形両県にまたがり、奥羽山系に属する県立自然公園船形連峰の中心に位置する舟形山(ふながたやま)。頂上部が船を伏せたような形をしていることからその名がついたといわれ、山形県では御所山との名称もあるその山の登山道沿いにあるのが色麻大滝(しかまおおたき)の大瀑布である。
 高さ41m、幅7mの迫力ある直瀑は断崖を豪快に流れ落ち、保野川にかかる。
 普段は、一度途中の岩肌にぶつかって落ちる二段の滝であり、静かで荘厳さに満ちた清冽な瀑容を見せるが、春先の雪解け時期になると水量が増して二段になることなく直接落ち込んでいき、その高さとも相まって豪快で迫力満点の直瀑へと変貌を遂げる。
 展望台や東屋、遊歩道も整備されており、遊歩道を下っていくと、その雄大な白い飛瀑を間近に眺めることができる。
 また、舟形山自体が紅葉の名所でもあるため、展望台から望めば、赤や黄色の彩りの中に浮かぶ白い絹糸のような大滝を眺望することができるだろう。
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2007/6/11


産着 Ubugi Ubugi

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 産着(うぶぎ)は初着とも書き、習慣として広まったのは江戸時代頃からである。当時は赤ん坊が生まれても、数日で命が果ててしまうことは珍しいことではなく、なんとか赤子が悪霊の目に触れず、天に召さることのないようにと、わざわざ古着で作った着物を着せたりしていた。
 この生まれたての赤子に着せかける着物を産着と言うが、始めは袖のない「おくるみ」という小布団のようなものでくるみ、三ないし七日後に袖口のある「手通し」というものを着せた。
 赤ん坊が無事生きてゆけそうだとなった頃、氏神様にお参りし、氏子となる「お宮参り」を行う。男児は生後三一日目、女児は三二日目頃に参り、その折には里から送られた初着を掛け衣装としてまとった。この際に晴着として着せかける初着は、赤青黄色などの華やかなものが良いとされ、男児は熨斗目(のしめ)、女児は柄模様で、御所車や手鞠、小鼓の柄が花で囲まれたものが多い。
 産着は、様々にかたちを変え、赤ちゃんを災いから守っているようにもみえる。
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2007/5/15


切目神社 Kirime-jinjya Kirime Shrine

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 「熊野信仰」の修験道として有名な熊野九十九王子中、藤白、滝尻王子などともに最も有名な王子社である。
 ここの神霊は殊に霊験あらたかとされ、海岸の方を向いて祀ると「沖の走り舟を止める」ということで、ご神体は裏向けに祀られているという。また宮参りの際は、社殿の裏側から参拝し、また元旦の初詣のときには「裸」で、どんな親しい人と出会っても挨拶をせずに「無言」で詣でるのが習慣だったとか。
 平安時代から鎌倉時代にかけての300年間は特に熊野詣でが盛んで、天皇、上皇、法皇、文人墨客は必ず参詣し、御所御殿は皇族の宿泊所となった。
 境内にある古木「ホルトノキ」は樹齢300余年とされ、県指定文化財となっている。
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2007/5/1


金閣寺 Kinkaku-ji 

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 金閣寺。正式には「臨済宗相国寺派・北山鹿苑寺」(りんざいしゅうそうこくじは・ほくさんろくおんじ)。
 京都の北西、京都市北区に位置し、「金閣寺」の名はその金箔で飾られた煌びやかな姿から呼ばれた通称である。室町幕府の花の御所に隣接していた相国寺をはさんだ京都の東山にある銀閣寺も、同じ相国寺派である。
 創建は応永(おうえい)四(1397)年、、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺家の山荘を譲り受け「北山殿」と呼ぶ別邸に一新したのが始まりである。義満の死後、その法名にちなんで「鹿苑寺」と名づけられた。
 金閣といわれる三層からなる金色の建物は、舎利(しゃり)(お釈迦様の遺骨)を安置する舎利殿である。
 池に映る青い空、緑に輝く木々、春の桜に秋の紅葉。そして金色に輝く舎利殿。
 無色と静寂だけが禅ではないことを、語ろうとしているのか。室町の「禅」は一筋縄ではいかない。
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