NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/29


はりみ(紙製ちりとり) Harimi(Kamisei-Chiritori) Harimi (Paper Dustpans)

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 まだ日本の家屋に和室が多かったころ、日々の簡単な掃除は箒とちりとりだった。
 さっと掃いて、さっと取る。その簡素な動作が、日々の暮らしを清潔なものにしていた。
 最近はそのような光景も余り見かけなくなってきたが、今の多種多様化するライフスタイルに、本当にそれらは合っているのだろうか。
 ちょっとした掃き掃除にもわざわざ掃除機を引っ張り出し、ちょっと使ってまたしまう。
 なら、いっそのこと昔のようにこのはりみ(紙製ちりとり)と箒を傍らに用意しておいてはいかがだろう。和紙に柿渋を塗ったもので、大きさも二〇cmほど。
 色合いも程好く、部屋の中にあっても自然と溶け込むし、大きさも小ぶりで、どこにあっても落ち着きがある。
 こういう日常の道具は無造作に部屋にあってこそ、映えるものであるべきだ。
 小さい箒とセットで、机や棚の上などの狭い場所で活躍してくれるだろう
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2008/4/9


HANA Hana 

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 私たちの生活になくてはならない明かり。
 昨今では昼夜を問わず、私たちを、生活を、街を強烈に照らし出してくれている。
 それ故に、ぼんやりと灯る明かりには何がしかの癒しを人々は無意識に感じているのではないだろうか。
 「HANA」は、そうした癒しというよりも、日々の生活をより豊かにしてくれる、正に華のような照明器具である。
 フードは三角形の面を集めて作られた多面体の形を成しており、それ自体がある種の華を連想させるデザインとなっている。
 枠で仕切られた三角形のフードは柔らかく光を透過し、それぞれがまるで花びらのように、明かりをまろやかに咲き散らせる。
 光を通さない枠と、通すフード面が織り成す明かりの紋様は、日々の生活にまみれた部屋を一瞬にして華やかに演出してくれる。
 炎から始まった私たちの明かりへの想いは、今も進歩し続けていることをこの照明器具は教えてくれているようだ。
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2008/2/7


御簾 Misu 

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 御簾(みす)とは部屋と部屋の間の柱と柱を水平につなぐ長押(なげし)に掛けて、仕切りや目隠しをする用具のことである。
 古代から用いられ、はじめは神域や神聖な場所との境のために使用されていたが、その後、貴族や身分の高い人の住居の仕切りや装飾用として広まっていった。
 御簾は真竹や女竹を細長く削り、色染めした後、赤糸でまとめ、帽額(もこう)と呼ばれる果紋(かのもん)を織り込んだ美しい布で縁を囲んだものである。巻き上げて束ねて留めておくことができるように、裏に鉤(こ)と呼ばれる鉤爪が付けられている。鉤は総角(あげまき)結びの飾り紐で固定するようになっている。
 竹の編む時は絹糸を使い、葵を形取って竹を編み上げる葵あみ、六角模様を形取って編み上げる亀甲あみや、二本一組のラインで竹を編み上げる八重あみなどがある。
 『源氏物語』では、登場人物の心の機微を表現するアイテムとしてよく登場する。
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2007/12/25


小泉八雲旧居 Koizumiyakumo-Kyuukyo Lafcadio Hearn’s Old Residence

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 「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名な小泉八雲が、松江の侍の娘セツと結婚し、明治二四(1891)年の五月から一一月までの半年間の新婚生活を過ごした家を、「小泉八雲旧居(こいずみやくもきゅうきょ)」または「ヘルン旧居」として今も姿を変えることなく保存されている。
 ヘルンというのは八雲が日本に帰化する前の名前、ラフカディオ・ハーンの姓ハーンをローマ字読みにしたもので、八雲がとても気に入って定着させた名前だという。
 旧居の建物は、享保年間(1716~1735)に松江藩士の屋敷として建てられたもので、八雲が武家屋敷に住むことを熱望して当時空家だったこの建物を借りたと伝えられている。
 この家の中央にある、三方に庭が見える部屋を特に好み、この部屋からの庭の眺めを楽しんでいたとされ、著書「知られぬ日本の面影」にも登場するという。
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2007/11/16


御物頭御番所 Omonogashira-gobansho 

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 御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)は、秋田県秋田市の保田城跡にある千秋公園に建つ史跡である。
 宝暦八(1758)年から安永七(1778)年の間に建築されたと推定される、秋田20万石佐竹氏の居城・久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物とされている。
 御物頭御番所は、「物頭」と言われた足軽の組頭が長坂門の開閉や登城者の監視をし、城下町一帯の警備や火災の消火等を行っていた場所である。
 二の丸から長坂を登った表門の手前にある建物で、木造2階建て、内部には14畳の番所、7畳の休息室、台所、便所、2階には8畳の部屋があり、屋根は切妻藁葺きで正面南側に庇が付いている。
 御物頭御番所は、往時の姿を今に伝える建築物である。
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2007/11/9


津和野 森鴎外旧宅 Tuwano Moriougai-kyuutaku 

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 津和野の森鴎外旧宅(もりおうがいきゅうたく)は、島根県鹿足郡津和野町町田にある建築物である。国の史跡に指定されている。
 文久二(1862)年、森鴎外こと森林太郎はこの家で生まれ、明治五(1872)年に一〇歳で上京するまでここで過ごした。
 森鴎外は、明治から大正時代に活躍した文学者で、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭などを務めながら、小説「舞姫」や「雁」といった作品を発表した。
 旧宅は、木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造りで、四畳半の鴎外の勉強部屋や、藩医の家らしく調剤室も残っている。
 また、隣接して森鴎外記念館が開館しており、鴎外の生涯と功績を顕彰している。
 森鴎外旧宅は、文豪の少年時代を暮らしぶりが伺える史跡である。
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2007/9/19


密貿易屋敷 Mitsu-boueki-yashiki 

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 密貿易屋敷(みつぼうえきやしき)とは、鹿児島県南さつま市坊津にある森吉兵衛屋敷の事である。
 リアス式海岸にある坊津は琉球・南方諸国に近く、古くから日本三津といわれた中国との玄関口として栄えた貿易港であった。
 江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつとなった。
 しかしこれは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として、薩摩藩は大陸との密貿易を続けたのである。
 屋敷は、万延元(1860)年、三代・森吉兵衛が建て、五代・吉兵衛まで住んでいたもの。
 屋敷内には隠密に貿易を行うため、中二階・覗き窓・隠し部屋など、構造上の様々な工夫がなされている。
 密貿易屋敷は、江戸の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/8/22


真穴の座敷雛 Mana-no-zashiki-bina 

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 真穴の座敷雛(まあなのざしきびな)は、毎年四月二日・三日に、愛媛県八幡浜市真穴地区で行なわれる、長女のための豪華絢爛な雛節供行事である。江戸時代の天明(1781~1788)の頃始まったとされる。
 自宅の部屋を片付けて空間を作ったところに、大工の棟梁が図面を興して多数の盆栽や小道具を使って庭園を作り、内裏雛を中心に各種人形を配置、手前には様々な海の幸や鉢盛り料理が供えられる。
 それは舞台芸術のような空間で、かつオリジナリティに溢れており、一度たりとも同じ座敷雛はない。
 大規模な為、準備期間は長くかかるものの、祭りの日の後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという言い伝えから、四日の朝には解体されてしまう。
 平成一四(2002)年には八幡浜市の無形民俗文化財に指定されており、地域の協力によって一般観覧も開催され、毎年この二日間に延べ二万人が訪れる観光行事となっている。
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