NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/4


牛越神社例祭 人形三番叟 Ushikoshi-jinja-reisai Ningyou-sanba-sou The Sanbaso Dance at the Annual Festival of Ushikoshi Shrine

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 静岡県の西伊豆町宇久須にある牛越神社(うしこしじんじゃ)において、毎年一一月二日と三日の二日間に天下泰平や五穀豊穣、国土安泰を祈願して奉納されるのが人形三番叟(にんぎょうさんばそう)である。
 能の演目の一つである「翁」を歌舞伎化したのが三番叟であり、それを人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)として演じる。
 その起源はいくつかあり、この伊豆に流された京都の公卿により伝授されたとする説や、江戸初期の伊豆金山奉行、大久保長安に伝授されたとする説がある。ただ、天明年間(1781~1788)に集落の若衆により同神社に奉納された記録が残っているため、この頃にはすでに行われていたと見られている。
 千歳、翁、三番叟の各一体に役者が三人ずつ付き、太鼓や笛、拍子などの演奏に合わせて、それぞれの担当部位ごとに絶妙なバランス感覚で人形を操る。
 人形と操者が一体となった幽玄の世界が、そこにはある。
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2007/12/28


小沢式三番 Ozawa-shikisanba 

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 桧原村小沢地区に古来より伝わる「小沢式三番(おざわしきさんば)」は、鎮守である伊勢清峯神社(いせせいほうじんじゃ)の秋の例祭に行われる神事で、能の「翁」を歌舞伎舞踊化したものだという。関東に伝わる式三番は小沢地区の他にはニヶ所のみで、珍しい神事である。
 この歴史は古く、約三〇〇年前に一度途絶えたとされるが、甲州郡内地方から師匠を頼んで復活させたとされる。現存する翁の衣裳には明和七(1770)年八月吉日の日付が、面箱蓋には安永三(1774)年という年号がそれぞれ銘記されている。
 神事を行うに当たって、三役は別火斎戒(べっかさいかい)という、食事など全ての事を女性の手を借りずに自ら行って、一週間身を清める慣習が今も残っているという。
 五穀豊穣などを祈願するこの古式ゆかしい神事は、都の無形民俗文化財の指定を受け、地元の若者衆たちによって今も伝えられている。
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2007/12/26


能楽 Nougaku 

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 伝統的な演劇である「能」「狂言」「式三番(しきさんばん)」の三種を総称して「能楽(のうがく)」という。室町時代より600年以上、演じ受け継がれてきた日本を代表する舞台芸術で、言葉や節回しは室町時代の様式を今に残している。
 能楽の源流を辿ると奈良時代まで遡るが、大陸から伝わってきた「散楽」という民間芸能が「猿楽/申楽(さるがく、さるごう)」と呼ばれる様になり、鎌倉時代の中期頃には俳優である「シテ」の歌や舞いを中心に、相手役の「ワキ方」、伴奏である地謡(じうたい)や囃子を行う「囃子方」、「狂言方」などで構成された音楽劇へと発展していった。
 その後、小面(こおもて)や翁などの能面を使用する「能」や、時代と共に様々な世相をとらえて風刺する台詞劇の「狂言」へと戯曲や演劇技法、出演者と細かな区別がされていき、現代に至っている。
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2007/12/10


碁石山 浪切不動明王 Goishizan Namikiri-fudoumyouou 

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 碁石山(ごいしざん)は、香川県小豆郡小豆島町の岩窟内にある真言宗の寺である。小豆島八十八ヶ所霊場第3番札所とされる。
 開基は不詳で、伝説では行基菩薩によって開かれたと言われる。
 安永三(1774)年、下野国の人である一翁道夢居士が、この岩窟内で念仏を唱えながら入定したとされ、岩窟内には、祈願の為の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
 浪切不動明王(なみきりふどうみょうおう)は、この碁石山に安置されている本尊である。
 海難事故を防ぐ不動明王としてはるか昔より、漁師や海運関係者に広く信仰され、多くの危難を防いだと言われ、弘法大師も止錫したと伝えられる。
 1番札所の洞雲山、3番札所奥の院の隼山とともに、験者が修行した道場とされている。
 碁石山の浪切不動明王は、地元の人たちから浪切さんと呼ばれて親しまれている不動明王像である。
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2007/12/6


佐波神社三番叟 Sawa-jinja Sanba-sou The Sanbaso Dance at Sawa Shrine

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 佐波神社三番叟(さわじんじゃさんばそう)は、静岡県西伊豆町の仁科に鎮座し、漁の神様を祀って崇神(すじん)天皇から造船の地を賜ったと伝えられる佐波神社において、毎年一一月二日と三日の二日間行われる秋の例祭で奉納される人形浄瑠璃である。
 二日の夜に「日の入り三番」、三日の朝に「日の出三番」が神社境内で奉納される。
 慶長年間(1596~1614)に伊豆金山奉行であり元は猿楽師であった大久保長安によって、周辺地区に人形浄瑠璃がもたらされたといわれ、同社での初演は文政八(1825)年に行われた社殿の大改修を祝って奉納されたものだとされている。
 千歳、翁、三番叟の三体の人形にそれぞれ三人の人形師が付き、太鼓や笛、謡などの奏者と合わせた、総勢二二人によって古式豊かに式三番叟が上演される。
 地元の若衆によって連綿と受け継がれる郷土芸能は、人形に命を吹き込み、見るものを幽玄の世界へと誘ってくれる。
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2007/11/29


延岡五月幟 Nobeoka-gogatsu-nobori Nobeoka Gogatsu Nobori

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 五月幟(ごがつのぼり)は男の子の祝いである端午の節句の時に、こいのぼりや兜、五月人形の飾りとともに、子どもの立身栄達を祝して立てられる幟(のぼり)である。今でも多くの地方でそれぞれ独特の幟を立てる風習が残されている。
 延岡五月幟もその一つで、400年近く前の寛永年間(1624~43)から続き、九州では数少ない筒引手染(つつびきてぞめ)の手法で作られている。
 延岡五月幟は上質の木綿に下絵を描き、もち米のりで下絵を縁取り二〇種類の顔料を使い、丹精こめて仕上げていく伝統的な手法であり、現在でもこの手法は守られている。
 描かれる絵は源平の戦い、勇壮な武将、金太郎や爺、そして翁など様々である。出来上がった五月幟は重々しさと独特な色合いをもち、現在では宮崎県伝統的工芸品に指定されている。
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2007/11/22


文様 蜀江(ショッコウ) Monyou Shokkou 

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 蜀江(しょっこう)とは、八角形と四角形が交互に並んで織り成す和文様である。
 和文様とは、平安時代以来、公家の服装・調度品や装飾に用いられた形、色、構成などに独自の優美な様式を持つ図柄の総称である。
 蜀江とは中国の蜀の首都を流れる河で、その周辺で産出される絹織物は蜀江絹として知られる。この蜀江錦に見られる文様なので、この名がついたと考えられている。
 能の翁(おきな)役にのみ用いられる翁狩衣(かりぎぬ)では、必ず蜀江文が用いられ、中に唐花(からはな)がおさめられている蜀江文様が描かれている。
 蜀江文の中に組み込まれた唐花は、古くは蓮華であったとする説があり、蓮華が万物を生み出す根源とされていた事と、翁の寿福性とが相通ずると言われている。
 文様・蜀江は、帯などに良く使われる、伝統的な和文様である。
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2007/10/12


信松院 Shinshou-in Shinshoin Temple

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 信松院(しんしょういん)は、東京都八王子市台町にある曹洞宗の寺である。本尊は、釈迦牟尼仏。八王子七福神のひとつで、布袋尊を祀る。
 天正一八(1590)年、信松尼が心源院より現在地に建っていた草庵に移ったのが創建とされる。
 信松尼は、武田信玄の六女である松姫である。
 松姫は永禄四(1561)年に生まれ、七歳の時に織田信長の嫡子で当時一一歳の信忠と婚約したが、その後、武田、織田家が不和になり、約束は果たされなかった。
 松姫は織田軍の侵攻から八王子に逃れ、二二歳の時、心源院に随翁舜ト山和尚を訪れ出家した。
 境内には松姫尼公の墓があり、市の史跡となっている。また、木製の軍船があり、毎年七月にはほおずき市が開催される。
 信松院は、武田信玄の娘・松姫ゆかりの寺である。
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