NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/17


一遍 Ippen 

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 一遍(いっぺん)は、鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。
 延応元(1239)年、伊予国(現・愛媛県)に誕生。10才で出家。法然の孫弟子にあたる聖達に師事。還俗し武士となり、再度出家し、専修念仏の生活へ。3年後、「十一不二」(全ての人が必ず極楽往生できるの意)を感得。
 その後、家族を連れて遊行の旅へ出る。念仏札や踊り念仏など、独特な布教活動が流行り、一躍カリスマの人となる。日本浄土教の系譜において、一際異質な存在と呼ばれる所以である。
 「信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できる」という絶対他力が時宗の教理である。大勢の念仏行者を率いた遊行は困難を極め、徐々に縮小し、他宗派に浸食された。しかし、一遍の高潔な人格と庶民教化への姿勢は、時代を超えて評価されている。1940年に国家より証誠大師号を贈られた。
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2008/2/8


壬生寺 Mibu-dera 

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 京都府京都市中京区にある寺。
 奈良時代の創建と伝えられ、正暦二(991)年、大津にある三井寺(園城寺)の僧・快賢が再興して「小三井寺」と呼ばれた古刹である。中世には円覚上人が寺を再興し壬生狂言(壬生大念仏狂言)を興した。壬生寺は京都三大狂言の一つである壬生狂言を伝える寺として、今も京の庶民に親しまれている。また幕末には、新撰組がこの寺を「兵法鍛錬場」として使用したことから、新撰組のゆかりの寺としても有名である。境内の壬生塚には、近藤勇の銅像や隊士の供養搭などが残っている。
 壬生狂言が演じられる「大念佛堂」、秘仏である辧財天が祀られている「弁天堂」をはじめ、五仏錫杖頭(ごぶつしゃくじょうとう)(重要文化財)や列仙図屏風(れっせんずびょうぶ)(長谷川等伯筆・重要文化財)などや、室町時代の作を含む190点もの狂言の面を今に伝えている。
 今も、壬生の地の人々の中にある寺である。
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2008/1/8


山王 日枝神社 Sanno-Hiejinja Sanno Hie Shrine

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 東京都永田町にある日枝神社は、文明一〇年(1478)、太田道灌公が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として日吉社を勧請したのに始まるとされている。
  その後、徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って『城内鎮守の社』として、また市民からは『江戸の産神』として崇敬されることとなる。
 当初は江戸城敷地内にあり、一般参拝は出来なかったが、 二代将軍秀忠公の江戸城改築にあたり、江戸城外に遷座され、庶民の参拝が可能となった。
 毎年六月に行われる山王祭は、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する『天下祭り』として、神田明神の神田祭、富岡八幡宮深川八幡祭りとともに江戸三大祭の筆頭として長く親しまれている。
 威勢の良い下町の江戸っ子の中には、『山王祭はお上品過ぎるねぇ』といわれる方もいるが、もし時間があるのなら、江戸の祭りをはしごしてみるのも一興かもしれない。
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2007/12/14


重箱 Jyubako Jubako Lunch Boxes

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 形は四角い物が一般的で、円形や八角形のものもある、二重・三重・四重・五重に積み重ね、食べ物を入れる箱。正式には、四季を表す四段重とされる。今日では、主に正月におせち料理を入れたり、花見や運動会などで弁当を入れる事に使われている。
 起源としては、中国の食籠(じきろう)が、伝わったものと考えられるが、室町時代の文献に、既に重箱の記述を見る事が出来る為、その歴史はかなり古いと考えられる。しかし、庶民に普及したのは江戸時代で、1610年に本格的に重箱が製造されてからである。そして、武家や大名の間では、狩りなどに出掛ける時に使用されていた。また、漆塗りや蒔絵の豪華な物も作られ、伝統工芸品として現在に伝えられている。
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2007/11/9


草鞋 Waraji 

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 草鞋(わらじ)は、緒で足の甲をしっかり固定して履き、長距離を歩く旅や、山仕事などに用いられる、ワラで編んだ日本の伝統的な履物である。
 中国の植物繊維を編んだ靴である草鞋が伝わったもので、奈良時代にはワラクツと言われていた。
 平安時代以降に日本の気候風土に合わせて工夫され、足指にはさんで履く庶民の履物として農作業や旅の時に利用された。
 草鞋は、足を乗せる台、かかとを受け止める返し、足を結ぶ紐、紐と返しを結ぶ乳からなっており、山歩きや長距離の歩行の際に非常に歩きやすく、昔の旅の必需品であった。
 現在は、祭りや信仰の場で身に付ける履物として存在し、一般的に日常生活では使用されていない。
 草鞋は、かつては旅や労働の時に日常使用されていた伝統の履物である。
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2007/11/8


東京無地染 Toukyou-mujizome 

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 東京無地染(とうきょうむじぞめ)は、古くから武蔵野国で生産されてきた染織物である。
 無地染とは、白い布地を一色の無地に染め上げる事で、古くは縄文時代から行われていた、染織物の中でも基本的なものだ。
 奈良時代になると、仏教の伝来と共に藍や紅花が渡来し、大きく発展を遂げ、鎌倉時代に入ると草木染や鉄媒染(てつばいせん)など技術も進展を遂げ、今につながっている。
 その中でも東京無地染は、武蔵野に自生した紫草の根から取れる染料を使用して染め上げたもののことを称し、江戸染めまたは江戸紫ともいわれていた。
 当時、上方きっての名歌舞伎役者であった市川団十郎演じる助六愛用の鉢巻ということもあり、庶民に大いにもてはやされることとなる。
 現在では東京都の伝統工芸品にも指定されており、古来よりの伝統を重んじながら、客の要望に沿って様々な色を生み出し、今も人々に愛される逸品を染め上げ続けている。
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2007/10/15


金刀比羅宮 Kotohiraguu Kotohira-guu Shrine

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 金刀比羅宮(ことひらぐう)は香川県仲多度郡琴平町にある象頭山(ぞうずさん)の中腹に建てられている神社である。
 江戸時代の庶民の楽しみであった「お伊勢参り」と同様に金毘羅参りも人々の人気を博し、全国から大勢のお参り客がこの地を訪れた。
 金刀比羅宮は船の神様、海の守護神として崇められており、御祭神は「大物主の神」である。
 神社として整備されたのは、長保三(1010)年、天皇の命を受けた藤原実秋(ふじわらさねあき)が本殿や鳥居などを改築してからといわれている。明治時代以前は「金毘羅大権現」と呼ばれていた。
 参道途中には水戸光圀の実兄、初代高松藩主の松平頼重の寄進により建てられた大門がある。大門には宮内と続く365段の石段がある。
 中には国の重要文化財、二層入母屋、銅瓦葺、総ケヤキ材で建てられている旭社があり御本宮へと続く。
 金刀比羅宮は四国の名所の一つである。
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2007/10/9


尾鷲わっぱ Owase-wappa Owase Wappa

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 尾鷲わっぱ(おわせわっぱ)は、三重県尾鷲市に伝わる伝統工芸品である。
 江戸時代初期から、弁当箱として庶民の間で広く愛用されていたとされる。
 尾鷲のある紀伊の国は、木の国とも言われ、古くから良質の木材の産地として知られていた。
 この地方の良質のヒノキを利用して作られてきたわっぱは、その頑丈さと、ヒノキや漆に殺菌効果があり、またわっぱの形状が蒸気を外に出す働きがあるので、夏でも食品が痛みにくく、冬は冷めにくいという特色から弁当箱として親しまれてきた。
 機械化が難しく、45工程にも及ぶ行程を経て全て手作りで作られる品で、大変丈夫で何十年も使用できる。
 尾鷲わっぱは、美しく堅牢で、独特の風合いを醸し出す、伝統の弁当箱である。
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