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2008/7/11


七支刀(しちしとう/ななつさやのたち) Shichishitou-nanatsusayanotachi 

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 七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)は、奈良県天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)にある全長74.8cmの鉄剣である。国宝に指定されている。
 石上神宮は、崇神天皇七(紀元前91)年の創祠とされる古社で、祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。
 七支刀は、六叉の鉾(ろくさのほこ)の名で石上神宮に伝世されてきた鉄剣で、表裏に金象嵌(きんぞうがん)の文字が61ある。
 表の銘文冒頭に泰和四年とあり、これは日本では仁徳天皇五七(369)年にあたるとされる。
 この剣は現在、日本書紀に記されている、神功皇后が朝鮮・百済から献上された七枝刀にあたると考えられている。
 銘文については腐食が激しく、読み取れない字も多くあり、その内容には諸説あるとされている。
 七支刀は、祭祀的な象徴であったとも推測される古代の剣である。
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2008/4/22


毘沙門天 Bishamon-ten 

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 毘沙門天(びしゃもんてん)は、元々はインド古代神話の神だ。
 仏教においては持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられ、中でも最強の神として知られている。
 梵名であるヴァイシュラヴァナの読みからビシャモンと音写され、毘沙門の漢字が当てられた。
 また、その梵名が「よく聞く所の者」という意味もあることから多聞天(たもんてん)の名でも呼ばれており、四天王の一尊として安置する場合は多聞天、独尊像の場合は毘沙門天と呼ばれる。
 その姿は頭には冠、右手には宝棒、左手には経文を納めた塔を持っている。また、武神の名にふさわしく鎧を着込んでいるのも特徴である。
 日本においては聖徳太子が戦勝を祈願して四天王像を祀ったことから、古来より戦勝護国の神として、武士たちの信仰を集めた。
 七福神の一人としても知られており、戦いや勝運にご利益があるとされている。また、幸福の神である吉祥天を妻としていることから福徳を与える神でもある。
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2008/3/18


民謡 Minyou 

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 民謡(みんよう)は古代から続くその土地の生活に密着した歌で、稲作や農耕文化と深いかかわりをもち、また、日本語の発声、韻、すなわち、日本語の独特の響きをもつ言葉を歌にしたものと言える。
 古来、貴族や公家の社会では上品で静かな立ち振る舞いがよしとされ、能や狂言へと発達していったが、民謡は庶民という大きな集団のものであり、生活の中の風景や自然の姿を素朴に表現したものである。
 現在、各地に伝わる民謡の多くは江戸時代後期に生まれた。例えば、九州の天草の漁師たちの掛け声にリズムが加わったといわれる「ハイヤ節」は、海を介して各地に広がり、それぞれの生活の中に定着し、その地域ごとの変化を遂げた民謡となっている。牛深ハイヤ節、佐渡おけさ、津軽アイヤ節などがそれである。
 また民謡という語源が定着したのは明治に入ってからで、それまでは、小唄、風俗唄、俚謡、俗謡、地方唄、在郷唄など様々な名称で呼ばれていた。
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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2008/1/23


土佐凧 Tosa-dako 

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 土佐凧(とさだこ)は手漉き土佐和紙を使用、正方形を45度回し角を立てた特徴的な形をしている。
 力強い墨の線に、魔除けの赤色を基調とした華麗な彩色は雅で、大変に美しい。
 凧は用途別に3種類に分けられ、絵凧と呼ばれる凧には武者や姫だるま、鶴を、定紋凧には家紋を、祝凧には「祝」などの慶祝文字をあしらう。
 凧は古代中国で兵器や宗教的な占いの為に作り出され、平安時代に日本に渡来したと言われており、土佐では、長曽我部氏が戦国時代の四国平定に、空とぶ兵器としてこれを用いた。 それが江戸時代になってからは男児出生を祝う行事となり、また、還暦の祝いに凧揚げをする風習も出来たと言われている。
 現在では香南市香我美町の1軒のみで作られ続けている。
 子どもの遊び道具としてももちろん、装飾用の美術工芸品としても大変に貴重で価値がある工芸品である。
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2007/12/20


さきたま火祭り Sakitama-himatsuri 

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 さきたま火祭り(ひまつり)は、埼玉県行田市の県立さきたま古墳公園にて毎年五月四日に行われている祭りである。
 昭和五五(1980)年、後に国宝に指定された金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が、さきたま古墳公園の資料館に保存されることが決まった事を記念して行われた「古墳まつり」の、催事のひとつとして始まった。
 火祭りの由来は古事記に基づき、ニニギの命がコノハナサクヤ姫と婚姻し、一夜の交わりで身ごもったのを疑われた時、疑いを晴らすため「神の御子ならば、火の中でも無事に生まれる」と産屋に火を放ち、その中で子供を無事に出産したという話を演じている。
 丸墓山、稲荷山から降りてくるフィナーレの御神火下りは、大変見応えがあって盛り上がる。
 さきたま火祭りは、観る者を古代のロマンと神話の世界に誘う祭りである。
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2007/11/13


切妻造 Kirizuma-zukuri The Kirizuma-zukuri Style

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 切妻造(きりづまづくり)とは、切妻屋根を用いた日本の伝統的な建築様式の事である。
 日本の木造住宅の屋根は、切妻造、寄棟造、入母屋造の3種類を基本とする。
 切妻造は、屋根の頂上部である棟から左右にくだる2つの屋根面で構成される。屋根が外壁面とまじわる部分にできる三角形を妻とよび、妻のある側面からみると、屋根を妻で切ったようにみえるので、切妻造の名がある。
 古墳時代には、切妻造の屋根が豪族居館を象徴した。
 しかし、奈良時代に中国から伝来した木造建築では、正面からみたとき、横方向への屋根の広がりが認識できる寄棟造の方が、格式が上とされていた。
 やがて、屋根の妻をみせる切妻造の象徴性と、寄棟造の正面形式の両方を兼備した入母屋造が、宮殿や貴族住宅、寺院において一番好まれるようになっていく。
 切妻造は、日本の古代建築の基本といえる木造建築様式である。
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2007/11/12


比都佐神社 Hitsusa-jinja Hizusa Shrine

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 滋賀県東南部に位置する日野町は昭和時代半ばに旧日野町や東桜谷、南比都佐、北比都佐などの村が合併して誕生した町である。比都佐(ひつさ)の地名は古代の郷名である必佐郷に由来すると伝えられている。
 「比都佐神社」のある辺りは、弥生時代にはすでに開けていたと伝えられており、古くから「久野」と呼ばれていた。久野の鎮守神として久野大明神が祀られたという。
 比都佐神社は、高さ二三七cmの石造宝篋印塔(ほうきょいんとう)が建っていることで知られている。これは嘉元ニ(1304)年に造られたもので、日本有数の優れた石造物として重要文化財に指定されている。
 古いものだが、彫刻の線もはっきりと残っており、格挟間(ごうざま)内にはニ羽の孔雀が向かい合っている姿も見られる。
 鎌倉時代から伝わる、バランスの美しい優れた美術品である。
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