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2008/4/11


胡麻竹の桐下駄 Gomadake-no-kirigeta 

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 胡麻竹(ごまだけ)とは、表面に胡麻のような粒のある竹の事である。
 胡麻竹は激しい温暖差のある京都で産まれた竹で、竹が枯れ始める時、表面に胡麻上の粒が現れる。
 胡麻竹の桐下駄(きりげた)は、その粒のおかげで足に心地良く、夏でも他の下駄のように汗でベタベタせず、涼しく履くことができるという、古の知恵が感じられる日本伝統の下駄である。
 天然の胡麻が表面に出ている竹が、上質な桐下駄に張付けてある。素足で履くのにとても気持ちよく、歩くには最適な素材だ。
 足元が滑りにくく、昔から幸運を呼び込むものとされている下駄であるが、最近は作れる職人が少なくなり、手に入りにくくなっているという。
 胡麻竹の桐下駄は、高級感があって履き心地の素晴らしい、伝統の履き物である。
 
高さ 5.5cm
巾  12cm
長さ 24cm
靴のサイズが24.5cm~26cmの人用
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2007/12/10


草履 Zouri 

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 草履(ぞうり)とは、日本の伝統的な履物の一つである。
 明治時代以降に洋靴が普及するまでは広く使用されていたもので、昭和三〇年代頃までは、下駄や草履を履くのは珍しくなかった。
 草履とは主に竹の皮を表畳に使った履物で、その素材と編み方で価値が変わるとされている。
 現代では「革草履」が主流で、革、布、ビニールなどで覆われた小判型の靴底に同種の表をつけ、鼻緒を据えている。
 草履の大きさはみな同じで、鼻緒をゆるめたり絞めたりして足のサイズに合わせる。男子用は畳表・竹皮が多く、女性用は、表が布・皮・ビニールなど多種で、芯がコルク、裏が皮のものが多い。
 草履の中で竹や畳俵などで作られたものを、雪駄という。
 側面の穴に長い紐を通して足首を巻き、アキレス腱か外側で縛って履くのが草鞋(わらじ)で、長距離移動や日常作業用の履物として普及した。
 草履は、かつては人々に馴染んだ、最も手軽な履物である。
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2007/6/28


滋賀 左義長まつり Shiga Sagichou-matsuri 

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 左義長(さぎちょう)まつりとは、毎年三月中旬の土・日曜に日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)で行われる火祭のこと。
 藁(わら)束を高さ3m程の三角錐に組んで山車の胴体とし、その上に青竹を組み、赤紙を中心として様々な飾りを付けたものを左義長という。その中心にはその年の干支にちなんだ造り物を付け、頭の上には「火のぼり」という御弊が付けられる。
 土曜の午後、高さ6mにもなる左義長10数基が神社を出発。揃いの踊り半纏を着て赤い下駄を履き、化粧をした若者たちが拍子木を持ち、「チョウヤレ!」の掛け声も勇ましく町内を渡御する。
 翌日曜日の午後には、朝から各町内を練り歩いた左義長が、互いにぶつかり合う勇壮な「けんか」が繰り広げられ、夜になると神社の境内で順次奉火されて祭りは終わる。
 元々は鎮護国家、五穀豊穣を祈る祭りとして旧正月に行なわれていたものが、豊臣秀次の八幡城築城を機に、氏神八幡宮の祭礼として定着し、三月に行われるようになったと云われている。
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2007/5/2


志度桐下駄 Shido-kirigeta 

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 香川県高松市志度町で作られる桐でできた下駄。県の伝統工芸品に指定されている。
 下駄の歴史はかなり古く、弥生時代の遺跡から下駄状の木製品がみつかっている。志度町での下駄作りは、明治40年に「砂山房太郎」という人物が18歳のとき開業したのが始まりである。
 当時「書生下駄」や「日和下駄」が作り出され全国に広がった。現在では全国の60パーセントの生産を占める。
 自然乾燥させた「桐」を素材に使い、約40もの工程を経て作られる。そのほとんどが手作業である。
 現在ではさまざまな種類の下駄があり、そのひとつひとつに木の温もりが感じられるものとなっている。
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2007/4/26


足袋 Tabi 

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 足に履く衣類であり、日本の伝統的な履物である下駄、草履や雪駄などを履く際に用いられるため親指と他の指とに指先が分かれている。袋状の形をしたもので、足首を紐や金具で留める。
 中国から伝わった木靴を履く際に用いた下沓(しとうず)という靴下が元とも言われているが、明らかではない。元々は皮で作られていたが、江戸時代、明暦の大火(めいれきのたいか)により皮が不足したことから木綿製のものが作られ、主流となったと言われる。
 多くの種類があり、白足袋は礼装用他、能舞台、土俵、弓道場などに上がる際にも用いられる。
 色柄を用いた柄足袋は様々な美しい文様があり、着物や帯にあわせ選ぶことができる。
 地下足袋(ぢかたび)は最も用いられている足袋である。ゴム引きの底を持つ丈夫さと柔軟さが細かい作業に向くとされ、鳶(とび)などの職人に広く愛用されている。いずれも日本独自のものであり、現在も広く用いられている。
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2007/3/27


羽黒岩 Haguro-iwa 

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 古来からの天狗伝説が残されている羽黒岩は、岩手県遠野市綾織町にある山中に威風堂々とそびえ立つ。
 真っ二つに割れているこの巨岩には謂れがある。「とがり岩」という大岩と「矢立松」という松の木とが、おがり(成長)比べをしたところ、天狗が現れ、「石の分際で樹木と丈比べをするのはけしからん」と、下駄で蹴り、石の上の部分が欠けたという伝説だ。また、一説には石は競争に負けて悔しがり、怒って自らふたつに裂けたとも言う。
 羽黒岩に登る入り口には、伝説にちなんで巨大な下駄のオブジェが置かれている。なお、羽黒岩への山道はよく整備されていないので、登る際には服装に注意が必要だ。
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2007/3/14


駿河蒔絵 Suruga-makie Suruga Makie

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 駿河蒔絵(するがまきえ)は、静岡県にて受け継がれてきた伝統的な漆芸技法である。
 蒔絵は、塗面に漆で薄く地描きをし、金銀粉を蒔き乾燥させ、生漆で粉固めして乾燥させた後、炭で研ぎ、すり漆をして乾かし、研磨して仕上げたものである。
 文政11(1828)年、駿河に住む塗師・中川専蔵が、蒔絵技術の教えを受け、取り入れたのが駿河蒔絵の始まりである。
 天保元(1830)年、江戸から小林留吉・選次郎という2人の蒔絵師が駿河を訪れ、技術を伝授した事により、蒔絵技術はますます向上した。
 明治から昭和前半までは、海外輸出品として代表的な物であったが、戦後、漆器製品は日常品から高級嗜好品へと変わっていった。
 現在、駿河蒔絵の製品として硯箱、盆、文庫、花器、下駄、アクセサリーなどが生産されている。
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駿河塗下駄 Suruga-nuri-geta Suruga Lacquered Wooden Clogs

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 駿河塗下駄は、静岡県にて制作される工芸品である。
 江戸時代、静岡は東海道の中心として栄え、各地の流行がそのまま伝わり、履物も色々なものが作られていた。
 塗下駄は、明治10年頃、本間久次郎が綺麗で丈夫な漆塗りの下駄を考案し、大正時代に駿河漆器から転職した職人たちにより創意工夫がなされ、発展を遂げた。
 戦後は、下駄の需要も減少し実用的なものから嗜好品へと変わっていった。
 現在、実用的な中にも、伝統技術の蒔絵、漆塗り、彫刻などを使った高級品が作られ、高級塗下駄の産地として静岡は、全国首位の座を不動のものとしている。
 駿河塗下駄は、伝統の良い面を受け継ぎながらも、常に品質の向上と創意工夫を忘れず、努力を重ねてきた工芸品である。
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