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2007/11/1


栃木 平和観音 Tochigi Heiwakannon Tochigi Heiwa Kannon

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 栃木の平和観音は、栃木県宇都宮市大谷町にある、大きな石仏である。
 昭和二九(1954)年、第2次世界大戦における日米両軍の戦没者の冥福を祈り完成、昭和三一年に開眼した、大谷石の採石場の跡に作られた観音仏である。
 石工の上野浪造が基礎を作り、彫刻家の飛田朝次郎が手彫りで穏やかな表情に仕上げた。
 平和観音は、高さ26.93m、胴回り20mもの大きさで、胸の高さには宇都宮市内を一望できる展望台がある。
 平和観音像の左手の側にある崖にはトンネルがあり、大谷寺側と行き来出来たが、崩落の恐れがあるため近年取り崩された。
 近隣には、大谷観音で有名な大谷寺もある。
 平和観音は、石の町大谷を象徴する巨大観音像である。
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2007/9/13


羽田神社 太郎坊、次郎坊の杉 Hada-jinja Tarou-bou,Jirou-bou-no-sugi 

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 宮城県気仙沼市にある海抜320mの羽田山。その山腹に鎮座するのが羽田神社である。
 この地方独特の伝統行事「羽田のお山がけ」でも知られている同社であるが、もう一つの有名どころが、太郎坊、次郎坊の杉だ。
 羽田神社の社伝によれば、文治二(1186)年に、同社を再興した尾形三郎維義(これよし)の嫡男である小太郎維久と次男の維村により、手植えされたと伝えられている。
 社伝から考えると、両杉は樹齢八百年を超える古木であり、昭和三〇(1955)年には宮城県の天然記念物に指定されている。
 両杉は本殿を挟むように、左右にちょっと間をおいて立っており、本殿向かって右が太郎坊、左が次郎坊である。
 どちらも樹高は40mを超える立派なもので、どっしりと根を下ろし、天高く伸びたその姿は、甲乙つけがたい器量よしである。
 樹齢八百年を超えてなお樹勢は盛んで、宮城県の天然記念物にも指定、県下でも有数の老杉として今も訪れる人々を見守っている。
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2007/8/31


川崎神楽 Kawasaki-kagura 

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 宮城県栗原市に、川崎神楽(かわさきかぐら)という郷土芸能が受け継がれている。明治の中頃に、県境のすぐ向こう岩手県の達古袋(だっこたい)より伝わったといわれる。
 平成七(1995)年に、高清水町(現・栗原市)の無形文化財の指定を受けている。
 大正時代に地元に住む高橋喜一郎により完成し、一時は衰退したが、昭和四七(1972)年に町民の有志により復活した。
 川崎神楽では、法童丸(ほうどうまる)を題材にした演目がいくつかある。法童丸とは、平敦盛(たいらのあつもり)の子である。
 平敦盛は一ノ谷の合戦の後、源氏方である熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)に見つかり首を刎ねられる。この敦盛の死後生まれたのが法童丸である。直実は、自分の息子と同年代だった敦盛を討ち取ったことに後悔し、後に出家して蓮正(れんしょう)と名乗り、法童丸の育ての親となる。このような話を川崎神楽では、非常に勇壮な太刀使いで見せてくれる。
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2007/8/13


土呂八幡宮 Toro-hachiman-guu Toro Hachimangu Shrine

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 土呂八幡宮(とろはちまんぐう)は、愛知県岡崎市福岡町南御坊山にある神社である。祭神は、応神天皇、ほか四柱。
 奈良末期~平安初期に京都から下ってきた神官によって創建され、末社、随身門、神宮寺を伴っていたと言われる。
 しかし永禄七(1563)年頃の三河一向一揆の際に焼失し、記録などが失われた。
 その後、徳川家康の命で石川数正によって再建され、焼失した本殿・拝殿は元和五(1619)年、代官・畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)が、伊勢の大工・河北次郎兵衛定守に命じて再建されたと言われている。
 社殿は、三間社流造、桧皮葺で古風な形式を残しており、国の重要文化財に指定されている。
 土呂八幡宮は、戦乱の世から崇敬され続ける歴史ある古社である。
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2007/8/10


岩手 榊山稲荷神社 Iwate sakakiyama-inari-jinjya 

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 岩手県盛岡市中心部の北側に位置する北山にある神社。
 起こりは江戸時代、盛岡城内に置かれた3つの神社のひとつとして創建された。榊山稲荷神社は本丸西側の曲輪(くるわ)に祭られたが、戊辰戦争、明治維新によりその歴史を閉じなければならなくなった。
 社伝によると、ある夜初代宮司、荒川清次郎氏が榊山稲荷より「再興せよ」とのお告げを受けて、私財を投げ打って昭和五(1930)年に再興したとある。
 荒川氏は、旧藩主南部氏の所有であった北山の地を譲り受け、お宮を建てた。現在は「盛岡開運神社」の別名を持ち、地元民に親しまれている。しだれ桜が参道を飾り、春には花見がてら散策を楽しむ人々でにぎわう。
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2007/7/30


揚亀園 Youki-en 

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 揚亀園(ようきえん)は、津軽地方で流行した大石武学流(おおいしぶがくりゅう)と呼ばれる近代庭園の一つである。
 揚亀園は弘前の実業家中村三次郎の依頼で大石武学流の四代目宗家・小幡亭樹が作庭を行い、五代目宗家・池田亭月がその後の手を加えたとされている。
 複雑な形の池を中心にして敷地の東側には、茶室の揚亀庵(ようきあん)を配置。庵の脇には手水(ちょうず)鉢を置いた、離れ蹲踞(つくばい)が設けられている。
 津軽富士と称される美しい岩木山姿と、弘前公園の見事な老松を背景に、贅沢とも言える、落ち着いたくつろぎのある空間が広がっている。
 現在、揚亀園は津軽地方の文化を紹介する施設、津軽藩ねぷた村の中で、その素晴らしい景観を見ることができる。
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是川遺跡 Korekawa-iseki 

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 是川遺跡(これかわいせき)とは、青森県八戸市是川にある中居遺跡、一王寺遺跡、堀田遺跡の三つの縄文時代の遺跡の総称である。昭和三二(1957)年、国の史跡に指定される。
 大正から昭和の初めごろに掛けて、八戸市の泉山岩次郎・斐次郎兄弟によって発掘が行われ、東京ドーム五個分とも言われる、約24万5千平方メートルほどもある広さの遺跡は、その出土品によって全国から注目を集めた。
 亀ヶ岡遺跡と並ぶ縄文時代晩期の代表的遺跡で、出土した土器、石器、籃胎漆器、木製品は4千点にも及び、うち633点が国の重要文化財として八戸市縄文学習館に収蔵・展示されており、縄文の里として整備されている。
 是川遺跡は「縄文の美」とも言える、洗練された形と優れた文様を持つ土器や木製品などが数多く出土している遺跡である。
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2007/6/20


寺野ひよんどり Terano-hiyondori 

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 寺野ひよんどりは、静岡県浜松市北区引佐町にて毎年正月3日行われている祭りである。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 「火踊り」が訛り伝えられたのが、ひよんどりの名称の起こりと云われており、寺野のひよんどり、三日堂の祭り、鬼踊りなど様々な名称で呼ばれている。
 引佐町寺野にて約430年前から世襲によって伝承されてきた民俗芸能で、宝蔵寺観音堂で行われる。
 真っ白な雪が舞い降りる山あいの小さな堂で「神楽」が奉納されたあと、夕刻まで15の舞が演じられる。太郎、次郎、三郎の三鬼が登場する「鬼の舞」の時に盛り上がりは最高潮に達し、舞手と鬼は斧で松明を打ち叩くなど、もみ合うように激しく舞い踊る。
 寺野ひよんどりは、勇壮豪快な伝統の火踊りである。
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