NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/10


障子 Shouji 

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 障子(しょうじ)は、扉や窓に用いられる建具の一つで、明かりを通すように木枠に薄紙を張ったものである。
 元来は、同じような建具である襖(ふすま)も含め、さえぎるものの意味を持つ障子という言葉を用いていたが、閉じたままで採光できるという機能から広く使用されるようになり、襖とは独立する形となった。
 その誕生は平安時代で、襖を元に工夫改良されて出来上がったと推測されている。
 現在のように薄紙を張った、現在の我々が目にする障子は「明かり障子」と呼ばれ、平安時代末期にはすでに存在していたとされる。
 他にも下部にガラスを入れた雪見障子やガラスを板にした腰高障子、一本の溝に二枚の障子を引き違いにした子持ち障子などいろいろな種類が存在する。
 誕生してから千有余年、現代では断熱効果や紫外線カット効果などで障子が見直されつつあり、また、インテリアとしても日本文化の特徴の一つとして、家々に穏やかな明かりと伝統、そして快適さを導いている。
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2008/4/25


斐伊川和紙 Hiikawa-washi 

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 斐伊川和紙(ひいかわわし)は、島根県雲南市に伝わる伝統工芸品である。
 斐伊川沿いの奥出雲地方は、古くから「紙漉きの里」として知られており、斐伊川の清流付近から生産される良質な雁皮(がんぴ)・楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の原料を使い、障子紙、中折半紙などの生産を行なっていた。
 江戸時代には松江藩主による保護奨励もなされ、出雲地方最大の紙の生産地となった。
 明治以降、和紙生産伝習所を設置して高等小学校2年生を対象に紙漉き技術の指導を行ない、後継者育成に力を入れたが、安価で大量にできる機械製品に押され、現在製作しているのは七代続く和紙職人1人となってしまった。
 各種材料の特性を活かし様々な用途に活用できる斐伊川和紙は、強靭で長期保存に堪える特性を持っている。
 斐伊川和紙は、和紙ならではの美しさが人気の伝統工芸品である。
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2008/3/12


宮地手漉和紙 Miyaji-tesuki-washi 

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 熊本県八代市(やつしろし)では、江戸時代から伝わる「宮地手漉和紙(みやじてすきわし)」がつくられている。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いの後、柳川藩主の立花宗茂(たちばなむねしげ)が、肥後藩主の加藤清正に預けられた。その際、柳川藩の御用紙漉きであった矢壁新左衛門(やかべしんえもん)が、加藤家の申し付けにより紙漉きを始め、以来、八代の宮地地区に流れる中宮川で和紙づくりが盛んにおこなわれるようになった。
 その後、檀紙(だんし)や奉書紙(ほうしょがみ)などの装飾紙から、障子紙などの日用紙まで様々な種類の和紙がつくられた。加藤家、細川家、松井家と受け継がれ、御用紙としても重宝され、最盛期では百軒近くの紙漉きが和紙づくりに励んでいた。
 現在でも、大きな鍋釜で煮た楮(こうぞ)と、トロロアオイを原料として、流し漉き法で紙漉きの技術が受け継がれている。
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2007/9/28


東山和紙 Touzan-washi Tozan Washi Paper

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 東山和紙(とうざんわし)は、岩手県一関市東山(ひがしやま)町に伝わる伝統工芸品である。
 起源については諸説があるが、平安末期の文治五(1189)年、鎌倉勢に滅ぼされた奥州平泉藤原氏の落人が、東山町一帯に土着して農耕の傍ら、生活用品として作り始めたといわれている。
 一関市には紙生里(かみあがり)という地区があり、地名から東山和紙発祥地と考えられている。
 地元で栽培したコウゾやミツマタを原料とし、独特な技法を忠実に受け継ぎ、紙質の良い素朴な和紙を漉いており、障子紙や書道用紙だけでなく、名刺や賞状の用紙としても利用されている。
 特色は、コウゾ色をした自然の色と繊細優美、素朴で丈夫な紙質とされる。
 東山和紙は、平泉・藤原文化遺産の一つとして長い間受け継がれてきた、伝統の和紙である。
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2007/8/6


本美濃紙 Hon-mino-shi Hon-Mino Gami (Genuine Mino Paper)

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 本美濃紙(ほんみのし)は、平安末期から鎌倉時代にかけて、中国よりもたらされた製紙技術である。
 良質の茨城県産の那須楮(なすこうぞ)を原料とし、縦ゆりに横ゆりを伴った紙漉き操作による伝統的方法で漉かれた紙を本美濃紙と称する。
 日本に存在する最も古い紙は、正倉院に眠る大宝二(702)年の美濃、筑前、豊前国の戸籍用紙で、中でも本美濃紙による用紙は漉きムラがなく、優れた技術であったことを今に伝えている。
 江戸時代には障子紙として最上と評価、長く親しまれていくこととなる。障子紙は日光に透かされて鑑賞されるため、繊維がムラなく美しく漉き上げられる本美濃紙はまさにうってつけだったのである。
 現在は障子紙を中心として、記録用紙や文化財保存修理用紙などにも用いられ、その質の良さと味わいの深さで多くの人に愛される逸品である。岐阜の本美濃紙保存会が昭和五一(1976)年に重要無形文化財の指定を受け、今もその技術を後世に伝えている。
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2007/4/2


成島和紙 Narishima-washi 

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 成島和紙は、岩手県花巻市に伝わる伝統工芸品である。
 寛文元(1661)年以前から、東和町(現花巻市)成島では和紙製造が始まっていたとされ、その歴史は300年にも及ぶ。
 以後、50数軒もの農家が副業として生産にあたり、盛岡藩の御用紙や障子紙、提灯などの用紙として広く愛用されていた。
 成島和紙は、クワ科の「こうぞ」の皮を原料に、「ノリウツギ」の帖を混ぜ合わせて、冬の寒中に漉き上げた、紙である。
 冬はコウゾが寒さで腐りにくく、コウゾに混ぜるのりがよく粘り、良質な紙を作れるので、和紙作りは農閑期の冬場、1月から3月にかけて行うという。
 明治時代には100軒を超す家で紙作りが行われていたが、年々減り続け、いつしか生産するのは一軒だけとなってしまった。
 成島和紙は、素朴で味わいのある、独特の郷土工芸品である。
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2007/2/12


小原和紙工芸 Obara-washi-kougei 

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 小原和紙は、愛知県豊田市に伝わる、伝統工芸品。
 1496年、隣村の加茂郡から、三玄寺を建立するために訪れた僧侶が、農民たちの副業として紙漉きを教えたのが始まりといわれている。
 江戸末期には、障子紙やお札紙、三河森下紙という番傘用の紙などを生産していた。
 大正時代に入ると、紙漉き業の家が減少、小原製紙副業組合を結成し生き残りを図ってきた。
 昭和7年、愛知出身工芸家藤井達吉がこの地に訪れ、素朴な紙漉きに共感、共に努力と苦労を重ね、今の小原工芸和紙を築き上げた。
 地元には和紙のふるさとと呼ばれるギャラリーがある。字すき、葉すき、絵すき、うちわの4種の技術があり、製作体験などができる。
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2007/1/24


越中和紙 Ecchu-washi Ecchu Japanese Paper

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 北アルプスの山麓から湧き出る名水に恵まれた越中地方は、昔から紙漉きが盛んだった。「越中和紙」と呼ばれる和紙は、丈夫で腰があり、古典的な障子紙、半紙、提灯紙、近代的な書画、版画用紙や100種類にもおよぶ染紙など多岐に渡る製品に使われている。
 古くは奈良時代に書かれた「正倉院文書」などの古文書に越中国紙(えっちゅうのくにがみ)についての記録が残っている。また、平安時代に書かれた「延喜式(えんぎしき)」にも、税として納める作物として和紙が記されるなど、きわめて歴史は古い。
 越中和紙は全国的に見ても若い後継者に恵まれ、伝統的な楮(こうぞ)紙や染紙などの古典的な和紙はもとより、新しい工芸和紙や和紙加工品、観光土産品などの商品開発にも積極的に取り組んでいる。
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