NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/4


直垂 Hitatare 

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 「直垂(ひたたれ)」とは、上着、袴とも同じ裂地でつくった衣装である。裂地とは、染織した糸で模様を織り出す織物のことで、茶入れ袋や袱紗に使われている布地でもある。
 着物の左右の前身頃に縫いつけた、襟から裾までの細長い布「袵(おくみ)」がなく、襟が垂直に縫い付けられていることから、直垂という名称がつけられた。
 もともとは、筒袖仕立ての庶民の平服だった。平安時代になると、鎧下に着る際、行動の便が良いことから、武士が着用するようになった。
 鎌倉時代に入ると袖が大きくなり、体裁を整えて武家の平常服となった。幕府などへ出仕するときは、公式衣装として使われた。
 また、袖が大きい事で、戦の際、鎧下に着ることが不便になり、日常の直垂とは別に、かつての筒袖の直垂に近い形の「鎧直垂」が用いられるようになった。
 江戸時代には、三位以上の武家の礼服となった。
 現在では、大相撲の行司の装束や雅楽の楽師、祭礼の供奉人(ぐぶにん)などでつかわれている。
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2008/6/6


生子神社の泣き相撲 Ikiko-jinja-no-naki-zumou 

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 生子神社(いきこじんじゃ)の泣き相撲は、栃木県鹿沼市樅山町で開催される祭りである。
 毎年9月19日(日曜日でない場合は次の日曜)を大祭日と定め、子供の健やかな成長を祈願して開催されている奇習行事であるという。
 安産子育の守護神を奉る生子神社の境内に土俵を組み、力士に扮した地区の氏子が東西の土俵から、幼児をそれぞれ抱き上げて「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声のもと高く振り上げ、先に泣いた方が勝ちとするもの。これは古来から「泣く子は育つ」と言われる縁起にちなんだものと言われる。
 泣き相撲は、文久年間(1861)より行われ、縁起を担いだ習俗が奉納相撲に取り入れられたものだとされる。
 昨今では広く氏子以外からも講員を募っているため、近隣は元より首都圏からの参加も多く、勝ち負けは関係なく双方に勝ち名乗りをあげることもあるようだ。
 現在は、鹿沼市無形文化財・国選択無形民俗文化財に指定されているという。
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2008/5/15


四股 Shiko 

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 四股(しこ)とは、相撲における基本運動のひとつで、主に下半身を鍛えるために行われる動作である。
 相撲は古来、神事であったためまず大地を踏みしめる四股を行って邪気を払い、正気を招き寄せるという信仰行事の一種だったとされる。
 古くは、強く恐ろしいことや頑丈なことを意味した「醜」の字が当てられていたことからも信仰に由来したことを偲ばせる。
 その動作は、両足を開いて膝に手をそえて腰を落とし、そこから左右に体重をかけながら反対側の足を高く上げて中空で一端静止した後、ゆっくりと力強く踏みおろす。足を上げる時以外は腰を上下させないようにし、これを繰り返し行い、鍛錬とする。
 柔軟性と筋力、さらにバランスも要求されるため、足腰を鍛えるという点においては非常に理にかなった鍛錬方法でもある。
 現在では健康維持のためのストレッチにも取り入れられるなど、相撲や鍛錬以外の面でも注目されている。
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2008/3/18


板かるた Ita-karuta 

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 板かるたとは、その名の通り、板にかかれたかるたのことである。
 始まりは江戸時代に福島県会津藩の武士たちが内職で作成していたという説が有力であるが、普及させたのは明治以降の北海道の屯田兵たちである。
 屯田兵とは厳寒の北海道で軍隊としての規律を守りながら開拓作業にも従事していた人々である。激しい環境と労働下、お祭りや相撲の地方巡業などの数少ない娯楽の中で板かるたも貴重な楽しみの一つであった。
 板を使っているのは、北海道では紙は貴重で手に入りにくかったことと、板かるたの材料となる朴(ほお)の木や白樺の木が群生していたためである。
 内容も変わっており、百人一首の場合、通常は上の句を読み上げて下の句の書かれた札を取り合うのが、板かるたの場合は下の句を読み上げ、下の句の書かれた札を取り合うのである。そこには、教養よりもスピードと豪快さが要求された。そのため下の句かるたともいわれている。
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2008/2/29


十五夜火とぼし Juugoya-hi-toboshi 

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 十五夜は毎年旧暦の八月一五日、現代でいうと毎年九月から一〇月の初旬頃にあたる。すすきやお団子をお供えして縁側で中秋の名月を眺める静かな印象だが、地域によっては大変賑やかな風習が残る。
 鹿児島県南さつま市には綱引きや相撲を月に奉納する十五夜行事が伝承されている。準備段階にあたる十五夜を知らせる踊り、口説き唄やお囃子、茅引き、綱ねりなどもすべて行事のひとつであり、集落ごとに少しずつ異なっている。
 坊津町の上ノ坊には十五夜火とぼし(じゅうごやひとぼし)と呼ばれる風習がある。
 綱の材料の100キロほどの茅(かや)を山から持って降りる際に、たいまつをたいて村人に知らせるものだ。
 山の中盤付近で、青年たちが番茅と呼ばれる太く束ねた茅の松明を、火の粉を散らしながらぐるぐる回す。番茅はおよそ一七本ほど。その後口説き歌を歌いながら手分けしてふもとまで運びきる。
 この十五夜火とぼしは「南薩摩の十五夜行事」のひとつとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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2008/2/6


紙相撲 Kamizumou 

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 それまでの戦乱が一時の終息を迎え、江戸時代は平穏な時が流れるとともに、庶民の文化も大きく発展していった。そんな中、相撲は当時の人々にとっても、非常に人気を博した娯楽であった。そのため、相撲に関連した遊びが多く生み出されたという。紙相撲(かみずもう)もその中の一つであった。
 紙で作った力士である人形を、土俵に見立てた板や厚紙をの上に置き、その隅をトントン叩く。すると紙の力士が互いに動き出し、どちらかが倒れるまで勝敗を争う遊びである。
 昭和二九(1954)年に徳川義幸氏という当時一七才の少年が、独自の紙相撲の方法を考案。これがマスコミに大きく取り上げられ、全国的ブームにまで発展し、遂には、日本紙相撲協会が設立されるまでに至った。
 現在では、紙の大きさや土俵の大きさ、土俵においた時の人形の角度など、本物の大相撲のようにきめ細かい約束事が決められており、全国に多くの愛好者がいる。
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土俵 Dohyou 

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 日本の国技である相撲の歴史は大変古く、「古事記」の中に記されている建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が出雲の国をかけた「力くらべ」が起源とされている。
 土俵(どひょう)は、相撲を取る力士たちが勝負を争う神聖な場所を指す。土俵はその字のごとく、俵に土を詰めたものを使うためにこう呼ばれる。
 その大きさは江戸時代では直径一三尺、三メートル九四センチであったが、昭和六(1931)年、天皇がご覧になる天覧試合の時より直径が一五尺、四メートル五五センチとされた。
 現代の大相撲の本場所の土俵は、円周となる勝負俵一六、東西南北の真中の俵だけ円よりも俵一個分外にだしている徳俵四、周囲を囲む角俵二八、四角の上げ俵(外俵)四、土俵に上がる上がり段(踏み俵)一〇、小さめの水桶俵四の六種類六六俵を使用している。
 土俵は勝負を行う神聖な場所であることから、真中に穴を掘り日本酒や塩、米などが奉納される。また、女人禁制とされる場所としても有名である。
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2008/1/30


泊十五夜踊り Tomari-juugoya-odori 

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 鹿児島県南さつま市坊津町には綱引きや相撲を月に奉納する十五夜行事が伝承されている。十五夜を知らせる踊り、口説き唄やお囃子、綱の準備、綱引きなど大まかな流れは同じだが、その中で集落ごとに異なるユニークな風習が盛り込まれている。
 泊十五夜踊りは坊津町泊地区の風習だ。十五夜の日の午後三時頃、着物に白いハチマキをした女性が集まり、列になって九玉神社に向かって踊り練りを行う。境内では宮参りののち、輪になって踊りを奉納する。
 夜になると浴衣に着替え直し、また輪になって踊る。
 踊りの輪の中に数回男子が走りこむオドリコワシは昔の男女が触れ合う機会の名残だ。オドリコワシがあっても女性達は動じず踊り続ける。
 踊りの後は男子による十五夜綱引きが行われ、綱の一部をお月様に奉納する意味で先端を川に投げ込む。
 泊十五夜踊りは「南薩摩の十五夜行事」のひとつとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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