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2008/6/30


神岡城 Kamioka-jou 

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 神岡城(かみおかじょう)は、岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘にあった城である。
 永禄七(1564)年、越中への侵攻拠点とする事を目的に、武田信玄の命令で江馬時盛(えまときもり)が築城し、高原諏訪城の支城となった。
 天正一三(1585)年、金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となったが、元和元(1615)年に江戸幕府の一国一城令で破却され、廃城となった。
 元々は江馬館、東町城などと言われ、江戸時代に書かれた「飛州志」には江馬之御館と書かれていたが、昭和四五(1670)年、城跡に模擬天守を造った時に、神岡城という名前になった。
 現在、城跡には再現された天守閣や残された遺構である壕や石塁などがあり、内部では実際に使用された鎧、刀剣、馬具などが一般公開されている。
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2008/6/26


岩崎城 Iwasaki-jou 

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 岩崎城(いわさきじょう)は、小高い丘の上に築かれた城である。
 この城は室町時代末期、尾張国の東端、国境付近を守る織田信長の父である織田信秀の支城であった。岩崎は、尾張と三河を結ぶ街道の要衝地として知られ、以前から交易の場として栄えたところである。城下は「市場」の地名が今でも残っている。
 築城年代ははっきりしないが、織田信秀により築城、属将であった荒川頼宗が守備していたとされる。享禄二(1529)年尾張国に進出するため、三河国岡崎城主で徳川家康の祖父であった松平清康が岩崎城を攻め落とした。その後、天文六(1537)年、当地方の土豪であった丹羽氏四代の居城となった。
 昭和五九(1984)年から約三年かけて発掘調査が行われ、隅櫓や井戸跡などが発見された。各郭の間を堀や土塁が取り囲み、城の遺構はよく残されている。
 現在、城跡は公園として整備されており、三層の模擬天守や歴史記念館が建てられている。
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苗木城(霞ヶ城) Naeki-jou(Kasumiga-jou) 

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 苗木城(なえきじょう)は、標高四三三メートルある高森山に築かれた山城である。木曽川のすぐ北側に位置しており、川の南側には中山道、北側には飛騨路が通っており、交通の要衝にある。木曽川を天然の堀とし、突出した岩山を巧みに利用した城である。
 また、島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった岩村城の支城として知られ、岩村城を「霧ヶ城」と呼ぶのに対し、苗木城は「霞ヶ城」と呼ばれている。
 この城は、天文元(1532)年、美濃岩村城主であった遠山景前(とおやまかげさき)の弟・遠山直廉(とおやまなおかど)が築城したと伝えられている。本丸や二の丸、三の丸に多くの遺構を残し、中でも天然の大岩を取り入れた石垣は、一見の価値がある。
 ここからの眺望は素晴らしく、正面にはかつての中仙道中津川の宿場町が広がり、その後には標高二一九一メートルの恵那山が高くそびえている。
 昭和五六(1981)年に国の史跡として指定されている。
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2008/5/14


二曲城 Futoge-jou 

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 鳥越城と共に、加賀一向一揆の拠点となった二曲城(ふとうげじょう)は、大日川を挟んで鳥越城の対岸にある、やや低い山の尾根に築かれた山城である。築城については定かではないが、一説によると永禄一三(1570年)頃、豪族二曲右京進(ふとうげうきょうのしん)が築城したといわれている。
 本願寺より派遣された鈴木出羽守(すずきでわのかみ)が鳥越城を築いた後は支城として鳥越城を補佐し、天正八(1580)年一一月に織田軍に対し落城するまで抵抗した。
 規模はやや小さいが、登山道入り口には虎口の土塁、頂上には平削地があり、鳥越城を背後から見守る砦の役目をしていた面影が今も残されている。
 麓には親水公園が広がり、登山道はよく整備されている。近くには歴史館があり、一向一揆の歴史などがわかりやすく伝えられている。
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2008/2/27


五城目城(砂沢城) Gojoume-jou(Sunazawa-jou) 

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 五城目城(ごじょうめじょう)は、秋田県南秋田郡五城目町兎品沢にあった城である。別名・砂沢城(すなざわじょう)とも呼ばれている。
 中世期は浦城主の三浦氏の支城だった。
 やがて天正年間(1573~1592)頃の安東・秋田氏の内紛後に五城目地域を支配するようになった藤原氏は五十目氏を称するようになり、その際「市」も馬場目城下から五城目に移ったとされ、藤原内記秀盛の居城となったと伝わる。
 慶長六(1601)年、秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り、廃城となった。
 現在、山頂には天守閣風の森林資料館があり、植林や伐採に使われた道具などが展示されている。標高97mの頂上に建つ為、天守からは町が一望出来る。
 五城目城は、五十目氏の居城として知られる城である。
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2008/1/17


龍野城 Tatsuno-jou 

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 兵庫県たつの市の「龍野城(たつのじょう)」は、明応八(1499)年に西播磨の豪族・赤松村秀によって鶏籠山の山頂に築かれた。政秀、広貞、広秀と四代続いたが、天正五(1577)年に織田信長の命による播州征伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城、替わって石川光元や蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が城番として置かれた。
 一時期、姫路城に入城した池田輝政により支城として整備され、その後も本多、小笠原、岡部、京極と城主が替わっていった。万治元(1658)年に京極高知による讃岐丸亀への移転で廃城となり、一四年間は天領となった。
 寛文一二(1672)年、信州飯田から脇坂安政が五万一千石で入封すると、山麓に平山城として陣屋形式のものが築かれ、泰平の世も手伝い現在に至っている。本丸御殿は昭和五四(1979)年に再建されたものである。
 城下町は「播磨の小京都」と称され、武家屋敷の雰囲気は往事を思わせる。
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2007/10/24


三原城 Mihara-jyou Mihara Castle Ruins

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 三原城は、現在の広島県三原市にあった城である。国指定史跡となっている。
 三原城は、天正8(1580)年、小早川隆景によって沼田川河口付近にあった中州に建てられた城である。
 その姿が、まるで海に浮いているように見えたため「浮城」或いは「海城」と呼ばれたという。
 東は湧原川から西は現在の臥龍橋付近まで約900メートル、南北に約700メートルの広さがあった。
 隆景の死後、関ヶ原の合戦を経て紀伊和歌山藩筆頭家老の浅野忠吉が入城し、広島藩の支城として幕末まで使用された。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は、石垣とお堀が残り、周辺は公園として整備されている。
 三原城は、秀吉や家康も宿泊したという要害であり、素晴らしい景観を誇った城である。
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2007/10/12


馬場館 Baba-tate Baba-tate Castle

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 馬場館は茨城県鉾田市烟田に位置した城である。
 鎌倉時代初期に烟田(かまた)氏により建てられた烟田城の支城のひとつ。名前の通り城や付近の新宮神社の馬場でもあったことから馬場館の名前がついたとされる。
 烟田氏の有力家臣に与えられた居館である烟田八館の一館。
 八館とは馬場館と冨士山館、塙館、母貝館、勧請地館、大樋上館、竜ヶ谷館、金敷館をす。烟田城周辺の要害に築き、外敵に対しての防御線として使われた。
 馬場館は台形に近い方形城郭で、ごく単純な造りをした中世初期の構造であり、周辺に残る水堀と土塁が現在に支城の跡を僅かに残している。
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