NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/30


黒川岬 Kurokawa-misaki 

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 黒川岬(くろかわみさき)は、鹿児島県姶良郡加治木町から錦江湾(きんこうわん)に向かって突出した岬で、錦江湾をたたえた桜島の雄姿を望める名スポットである。
 湾奥になるため海面は静かで、沢山の小魚が泳いでいる様子を楽しむ事ができる。またシーカヤックでこの周辺を通過するとイルカと遭遇する事もあるという。
 朝鮮の役の際、陣僧として名将・島津義弘に仕えた鳳山が、晩年にこの地で「鳳山軒」という庵を結んで過ごした。第一八代藩主・島津家久は度々この庵を訪れ、黒川山に咲いた花々が鏡面のような波に映り込んだ様子を錦に例えて「浪のおり・かくる錦は磯山の・梢にさらす花の色かな」と詠み、ここから鹿児島湾の別称・錦江湾の名が起こったと言われている。
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2007/9/19


成川神舞 Narikawa-kanme 

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 成川神舞(なりかわかんめ)は、鹿児島県指宿市山川成川の成川南方神社にて、三年に一度、一〇月二七日前後に行われる神事である。
 成川南方神社は、創建年は不明ながら古くからこの地に建つ神社で、祭神は建御名方命(たけなかたのみこと)。
 成川神舞はお諏訪さんと呼ばれている南方神社に伝わる神楽で、以前は国家・神社や氏子に事ある時に神事を行い、その最後に神舞を奉納していた。
 成川神舞の起源は不明だが、慶安二(1649)年、藩主・島津家久の前で神舞を舞ったとの記録が残る為、慶安から万治年間(1648~1661)には成立していたと思われる。
 初日と二日目に、グレと呼ばれる神輿が家々を御神幸する神事を行い、二日目の夕刻から二〇番以上ある神舞が奉納される。
 成川神舞は、勇壮な中にも優雅さが感じられる郷土芸能である。
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鹿児島 鶴丸城跡 Kagoshima Tsurumaru-jou-ato 

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 鶴丸城(つるまるじょう)は鹿児島城の別名で、鶴が翼を広げたような城の形状であったことから名づけられた。
 慶長七(1602)年、初代薩摩藩主・島津家久により「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。
 一般的に城の中心として重視される天守閣・天主台を据えず、本丸大手口に櫓門を設け、塁状には長屋造りの武器倉庫である多聞櫓(たもんやぐら)、一層の屋根を持つ平櫓を備えた屋形造りの建物となった。
 天守閣の無い城としては伊達政宗生誕の城で有名な山形県の米沢城の二例のみである。
 この鶴丸城を守るのは薩摩藩独特の外城制度である。県下一一三箇所に武家屋敷などの外城があり、武士を藩に散らばらせ、強靭な教育を行い軍力を強固にし、人の手で藩を守ろうとした。
 鶴丸城はおよそ二六〇年間に渡り島津氏の統治所となったが、明治六(1873)年の火災により焼失。現在は、石垣と擬宝珠付きの石橋が残っている。
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2007/3/14


鶴丸城 Tsurumaru-jyou Tsurumaru Castle Ruins

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 鶴丸城(鹿児島城)は、鹿児島県鹿児島市城山町にあった城である。県指定史跡となっている。
 慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦に敗れ、家督を譲られた島津家久が築城した城である。
 「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくられた、天守閣のない質素な城であった。
 鶴丸城の名は、城の形が翼を広げた鶴に似ていた事からである。
 鹿児島は災害の多い地であり、鶴丸城は幾度も焼失・倒壊し、そのたびに立て替えが行われた。
 幕末の薩英戦争当時は、イギリス戦艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれている。
 明治4(1871)年、焼失を最後に、再建されなかった。
 現在、遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地などが残されている。また、城趾には歴史資料センター「黎明館」、県立図書館、市立美術館などが建っている。
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2007/2/20


杵築城 Kitsuki-jyo 

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 杵築城は、大分県杵築市杵築にあった城である。
 明徳4(1393)年、杵築城は、大友氏の一族である木付頼直によって築かれた。
 天正14(1584)年、島津家久の大軍が攻め寄せるが、籠城の末に耐えて、勝利を得る。
 豊臣秀吉によって大友義統が改易されると、木村氏も杵築城から追い出され、後に滅亡した。その後、次々と城主が入れ替わる。
 正保2(1645)年、松平英親が入城し、以後は明治維新まで松平家の居城となった。
 明治4(1871)年、廃藩置県により、廃城となる。
 杵築城は、八坂川河口の台山に築かれており、三方を海と川に囲まれる天然の要害であった。
 現在、城跡は公園になっており、本丸跡に復興天守閣が建つ。
 杵築城は、戦乱に揺れた昔を偲ばせる、堅牢な城である。
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