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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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2008/2/19


奥石神社 Oiso-jinja Oiso Shrine

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 奥石神社(おいそじんじゃ)の創建年は不明であり、もともと繖山(きぬがさやま)山頂の磐座(いわくら)を遠拝する祭祀場として営まれたものとされている。
 祭神は、藤原氏の祖である天津児屋根命(あまつこやねのみこと)である。
 日本神話によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が受けた海神の怒りを解くため、后である弟橘媛(おとたちばなひめのみこと)が海に身を投じた。
 このとき懐妊していた妃は、「自分は老蘇(おいそ)の森に留まって女人安産を守る」と言い残した。このことからこの神社は安産の神といわれて、広く信仰されている。
 老樹の茂る参道を進んでいくと、神域である老蘇の森が神社を護るように広がっている。
 本殿は三間社流造で重要文化財である。棟札より天正九(1581)年の建立とされている。
 境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長(もとおりのりなが)の歌碑も立っている。
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2008/2/18


観音正寺 Kannon-shou-ji Kannonshoji Temple

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 西国三十三箇所は、近畿二府四県と岐阜県に点在する霊場であり、日本で最も歴史がある巡礼行といわれている。
 観音正寺(かんのんしょうじ)は、その第三十二番札所にあたる。
 琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂付近に位置し、まるで現世と離れるかのように粛々と佇んでいる。
 社伝によると、聖徳太子が近江国に創建した寺院で、鎌倉・室町時代には、近江国守護職・佐々木六角氏の庇護を受け、三十三院の子院を擁し、絶大な勢力を誇ったとされている。
 その後、内戦や移築など時代に翻弄される憂き目も見たが、慶長二(1597)年に再び元の山上に戻った。
 以前のような、きらびやかな勢いはないが、現在も万事吉祥の縁結びの祈祷道場として篤く信仰されている。
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2008/2/14


姫次 Himetsugi Mt. Himetsugi

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 姫次(ひめつぎ)は、神奈川県相模原市にそびえる標高1433mの山である。丹沢大山国定公園に属している。
 津久井町の青野原から焼山(やけやま)、黍殻山(きびがらやま)を経て犬越路(いぬこえじ)へ抜ける東海自然歩道のルート上にあり、姫次はその最高地点となっている。
 名前の由来は、天目山の戦いに敗れた武田勢の小山田八左衛門の娘である折花姫が、信長・家康連合軍に追われ、「もはやこれまで」と持っていた短刀で自分ののどを突いて自害した地がここで、以来「姫突き」と呼ばれたからと伝わる。
 山頂からは、晴れていれば富士山が見え、宮ヶ瀬湖が見渡せて爽快である。
 また、かながわの美林50選に選ばれているカラマツ林があり、新縁から紅葉まで訪れる者の目を楽しませてくれる。
 姫次は、明るく開けた素晴らしい展望を誇る山である。
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2008/2/5


新田神社 お田植祭 Nitta-jinja Otaue-sai 

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 神亀山(しんきさん)の山頂にある新田神社は、邇邇芸尊(ににぎのみこと)を主祭神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)と天押穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀った旧薩摩藩を代表する神社である。
 神亀二(725)年に創建されたと伝えられ、かつての川内市(せんだいし)は薩摩国一の宮として古来から南九州の人々に信仰されてきた。この神社で六月上旬におこなわれるのが、五穀豊穣を祈願する「お田植祭(おたうえさい)」である。
 新田神社で本社祭の神事のあと、倉野、宮内地区に伝わる県の指定無形文化財である奴振踊り(やっこぶりおどり)の奉納が行われる。大きなまといに付いた竹へぎを回転させて踊るものである。
 その後、新田神社内の保食神社でお田植に伴う諸神事が行れ、古式ゆかしい衣装に身を包んだ早男や早乙女が一列になり、神田にて苗を植えていく。
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2008/1/18


桧洞丸 Hinoki-bora-maru Mt. Hinokiboramaru

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 桧洞丸(ひのきぼらまる)は、神奈川県相模原市津久井町~足柄上郡山北町にそびえる標高1601mの山である。
 丹沢山塊では最高峰・標高1673mの蛭ヶ岳に次ぐ標高を持つ。また、丹沢山地西部に位置し、最も奥深い山地の核心部にあるが、現在では登山コースが整備され、迷うところや危険箇所はない。
 桧洞丸の名は、南側の玄倉川の支流の沢の名を桧洞と言い、その源頭にある山であった事が由来とされる。
 山頂付近はブナの原生林に包まれ、ブナの若葉の黄緑と幹の白い斑紋とのコントラストが美しい。ブナ林は神奈川県の美林50選にも選ばれている。南面にシロヤシオツツジの群落地があり、5月の週末にはシロヤシオツツジを楽しむ人で渋滞が起きる。
 桧洞丸は、豊富な自然を誇る、丹沢屈指の人気の山である。
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2008/1/17


龍野城 Tatsuno-jou 

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 兵庫県たつの市の「龍野城(たつのじょう)」は、明応八(1499)年に西播磨の豪族・赤松村秀によって鶏籠山の山頂に築かれた。政秀、広貞、広秀と四代続いたが、天正五(1577)年に織田信長の命による播州征伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城、替わって石川光元や蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が城番として置かれた。
 一時期、姫路城に入城した池田輝政により支城として整備され、その後も本多、小笠原、岡部、京極と城主が替わっていった。万治元(1658)年に京極高知による讃岐丸亀への移転で廃城となり、一四年間は天領となった。
 寛文一二(1672)年、信州飯田から脇坂安政が五万一千石で入封すると、山麓に平山城として陣屋形式のものが築かれ、泰平の世も手伝い現在に至っている。本丸御殿は昭和五四(1979)年に再建されたものである。
 城下町は「播磨の小京都」と称され、武家屋敷の雰囲気は往事を思わせる。
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2007/12/25


銭形砂絵 Zenigata-sunae 

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 江戸時代に広く流通した通貨「寛永通宝(かんえいつうほう)」。その寛永通宝を模した巨大な砂絵が、銭形砂絵(ぜにがたすなえ)と呼ばれるものである。
 その大きさは縦一二二m、横九〇mで、周囲の長さが三四五mという観る者を圧倒する大きさである。そして、有明浜の白砂に描かれたその美しさも大きさには劣らないという。
 寛永一〇(1633)年に、村人達が藩主を歓迎するために一夜で造り上げたという伝説が残るが、詳細は定かではなく、起原は謎に包まれている。
 年に数回市民によって補修され、化粧直しが施される。付近の琴弾山(ことひきやま)山頂の展望台から砂絵を見下ろすことができ、夜にはライトアップされた松林の中に、その姿はくっきりと鮮やかに浮かび上がるという。
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