NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/8


長崎 ヘトマト Nagasaki Hetomato 

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 長崎のヘトマトは、長崎県五島市下崎山にて毎年一月一六日に行われている祭りである。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 起源と語源はまったく不明の奇祭で、600年ほど前から伝わるといわれ、五穀豊穣・大漁・子孫繁栄・無病息災を祈願する。
 祭り当日は、まず地元の白浜神社で子供や青年が参加する奉納相撲が行われ、次いで鉦を打ち鳴らしながら白浜の海岸に向かう。
 続いて、着飾った新婦二人が酒樽の上で羽根つきをして、次に体にススを塗り付けた若者が藁玉を激しく奪い合う玉蹴り、豊作と大漁を占う綱引きと続いて最後に大草履が登場し、見物の娘を次々と捕えて草履の上に乗せ激しく胴上げを行いつつ山城神社へ奉納する。
 長崎のヘトマトは、地域で行う諸々の行事を一度に行う祭りとしては、全国的に他に類を見ない奇祭である。
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2008/7/28


鎮西大社 諏訪神社 Chinzeitaisha-Suwa-jinja Chinzeitaisha Suwa Shrine

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 長崎県長崎市に鎮座する、諏訪神社(すわじんじゃ)は、鎮西大社といわれ、諏訪大神、森崎大神、住吉大神を祀る長崎の総氏神様である。
 弘治年間(1555~1557年)に信濃の諏訪神社から分霊し、諏訪神社が建立されていたが、領主のキリシタン大名大村純忠は長崎をイエズス会の知行地として寄進し、市内の神社仏閣はほとんど破壊されてしまった。しかし、寛永元(1624)年に肥前唐津の宮司、青木賢清(あおきけんせい)の努力により諏訪神社、森崎神社、住吉神社を合祀して再興。慶安元(1648)年に現在の場所に社殿が造営された。安政四(1857)年に火災によりほとんど焼失したが明治二(1869)年に10年の歳月を費やして社殿が再興された。昭和五九(1984)年には御鎮座三百六十年祭を記念して昭和の大改修が執り行われ、現在の社殿の姿となっている。
 地元では「お諏訪さま」と呼ばれ、毎年秋には日本三大祭の一つである長崎くんちが開催される。
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黄檗宗崇福寺 Oubakusyuu-Soufuku-ji 

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 長崎県長崎市にある黄檗宗崇福寺(おうばくしゅうそうふくじ)は黄檗宗では日本で最古の寺である。
 寺の起源は寛永六(1629)年、長崎を中心に貿易業を営んでいた中国福建省出身の華僑の人々が明の国の僧超然(ちょうねん)を招き建立したものである。
 崇福寺は唐様式であるためその門からして朱塗りの竜宮門である。この門をくぐると同じく朱塗りの第一峰門がある。この門と本堂である大雄宝殿は国宝に指定され、竜宮門である三門も国の重要文化財に指定されている。その他、護法堂(ごほうどう)、媽姐堂(まどそう)、鐘鼓楼(しょうこうろう)、関羽像(かんうぞう)など唐様式の伽藍は見るだけで華やかであり、また文化財の宝庫ともいえる。
 毎年7月の中国孟蘭盆会(ちゅうごくうらぼんかい)には日本に定住している多くの中国の人々が全国から訪れ、先祖の供養を行うことでも有名である。
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2008/7/17


龍良山原始林 Taterayama-Genshirin 

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 龍良山原始林(たてらやまげんしりん)は、長崎県対馬市厳原町豆酘に広がる森林地帯である。国の天然記念物、壱岐対馬国定公園、森林生物遺伝資源保存林に指定されている。
 龍良山は対馬下島にある標高559mの山で、標高120mの低地から山頂まで、照葉樹林が残されている。
 低標高地域にはスダジイ林が良い状態で残されており、標高350m以上ではアカガシ林に代わり、山頂付近では雲霧林を形成し、ラン・シダなどの着生植物が多く見られる。
 低地のシイ林から高地のアカガシ林までの連続した照葉樹林が良好に残されている地域は日本でも数少なく、貴重なものとされる。
 龍良山原始林は、対馬に古くからある天道信仰によって守られてきた、日本暖帯を代表する原始林である。
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2008/7/1


白磁透かし彫り Hakuji-sukashibori 

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 「白磁透かし彫り(はくじすかしぼり)」とは、長崎県指定無形文化財で、三川内焼(みかわちやき)のひとつに数えられている。
 その昔、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を別名「焼物戦争」といい、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工を連れ帰った。平戸藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は慶長三(1598)年、陶工・巨関(こせき)を連れ帰り、巨関が藩主の命で平戸・中野に最初の窯入れをしたのが三川内焼の始まりである。
 伝統ある三川内焼には、唐子絵に代表される呉須(ごす)による染付、薄手白磁の卵殻手などが挙げられるが、特に特に高度な技術と芸術性に富んだ作品が、精巧緻密な白磁透し彫りである。玉泉(ぎょくせん)製陶の第一四代の福本正則氏は、先代・福本数市氏に師事し、三川内焼の中でも「白磁透かし彫り」の秘法を伝授された。
 玉泉窯の中で代表的な作品が「香炉」である。数ミリ間隔で無数に開けられた亀甲型の穴から明かりが灯される時、光の美しさと陶磁器の白さが重なり、優しい姿が写し出される。
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2008/6/25


石田城 Ishida-jou 

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 石田城は長崎県五島市にあった、日本で最後に建てられた城である、いいかえれば、日本一新しい城でもある。
 幕末時代、鎖国政策をひいていた幕府に対して列強諸国は開国を迫ってきた。中でも、ロシア、イギリスは強引に開国を迫り、文化五(1808)年にはイギリスの軍艦が長崎港に強引に侵入する事件、フェートン号事件が勃発した。この出来事に危機感をいだいた幕府は嘉永二(1849)年、五島藩に海岸防備のために築城の許可を与えたのである。嘉永六(1853)年には浦賀にアメリカ合衆国の黒船が渡来、幕府に開国を迫り、翌年、日米和親条約が締結された。そのような中、五島藩は一五年の歳月を費やし、文久三(1863)年に石田城を完成させたのである。
 石田城の大きさは東西291メートル、周囲1346メートル、堅固な石垣を持ち、三方を海に囲まれた城であった。
 現在、石田城跡には、五島高校や歴史資料館、文化会館などが建てられ、五島家を祀る五島神社が建立されている。 
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2008/6/20


金石城 Kaneishi-jou 

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 金石城(かねいしじょう)は長崎県対馬市に建つ城である。
 享禄年間(1528~1531)この地を治めていた宗将盛(そうまさもり)が清水山の山麓に建てたのが金石城である。建てられた当時は金石館と呼ばれていた。当時、諸大名が争って豪華絢爛な城造りをしていたのとは対照的に、天守閣を持たない質素な城作りであった。
 寛文五(1665)年、二一代当主の宗義真(そうよしざね)により大手櫓門(おおてやぐらもん)などが作られ、城としての風格を持つようになり金石城と呼ばれるようになった。
 文化一〇(1813)年、大手櫓門は火事で焼失したが、幕府から多額の貸与を得て再建された。明治以後も大手櫓門のみが残されていたが、大正時代になると解体されてしまった。
 その後、平成二(1990)年に大手櫓門は、資料に基づき復元されるに至った。現在、当時の威風を残す城壁や庭園の池とともに、かつての金石城を偲ばしてくれている。平成七(1995)年に国史跡に指定されている。
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2007/10/18


旧本田家住宅 Kyuu-honda-ke-jyutaku 

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 「旧本田家住宅」は、長崎県下でも最古の農家住宅のひとつで、旧大村藩領古河村(現長崎市古河町)に遺存。建築年代は定かではないが、本田家は明和年間(1764〜1771年)にこの地に定住しているので、この住宅もその頃に建てられたと推定されている。
 本屋根は茅葺き。下屋は瓦葺きが普通だが、これは下屋も茅葺きである。4室あるうち、土間寄りの2室の間に仕切りを除いて1室とした、いわゆる三間取りの平面を持つ。土間の流しは「はしり」と呼ばれる、しゃがんだ姿勢で炊事を行う独特の形式である。
 旧本田家住宅は、昭和四六(1971)年に国の重要文化財に指定された。
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