NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/6/11


本陣 Hon-jin Honjin

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 本陣(ほんじん)とは、宿場の中でも大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの貴人が使用した特別な宿舎のことであるが、本来は戦国期の戦場において大将のいる本営のことを指す名称であった。それがやがて武将の宿泊するところを言うようになり、前述のように宿場内における貴人専用の宿泊所を指すようになった。
 本陣を勤める者は、宿役人の問屋や村役人の名主などが兼ねていることが多く、その規模は千坪以上の屋敷地に御成門や上段の間などの格式を備えていた。本陣の主は武士ではないが、民間が禁止されていた名字帯刀を許され、門や玄関などを設けることが特権のようになっていたという。
 現在残っていて公開されている本陣は13カ所あり、中でも最大級の規模を誇っているのは、東海道五十三次のうちの第五十二之次である草津宿本陣で、敷地面積4727平米、建物面積1706平米、部屋数39を備え、国指定史跡となっている。
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関宿 Seki-juku Seki-juku Post Town

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 関宿(せきじゅく)とは、その名の通り「関所の宿場」であったところ。ただしこれは、江戸時代の関所ではなく、六七二年の壬申の乱の時に鈴鹿の関として固められたものである。越前の愛発(あらち)、美濃の不破(ふわ)とともに古代日本三関と言われていたが、七八九年に廃止されている。
 中世の頃は関氏の所領として、地蔵院を中心に門前町から宿場町へと変化しながら栄えた。
 慶長六(1601)年、徳川幕府の宿駅制により、品川宿から数えて四七番目の宿場となったのが、現在の関宿、三重県亀山市関町木崎・中町・新所だ。ここは東海道五十三次の宿場の中で唯一往時の町並みを残しており、昭和五九年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されて以来、その保存と、歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んできている。
 街並は東から4つの地区に分けられ、家並みの低い町家が続く木崎、本陣・問屋・旅籠が集まる中町、地蔵院門前の新所、寺社が集まる北裏と、それぞれ特徴を持っている。
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2007/6/7


脇本陣 Waki-honjin Waki-honjin

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 脇本陣(わきほんじん)とは、本陣の予備的施設である。
 本陣は、天皇の使いである勅使や、公家、大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設であった。
 本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低い方の藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は、一般旅客の宿泊にも供した。
 規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。
 本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができた。
 脇本陣は、本陣の予備として設けられた大名・公家や幕府役人などの江戸時代の宿泊所である。
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2007/6/4


旧下ヨイチ運上家 Kyuu-shimo-yoichi-unjouya Old Shimoyoichi Unjoya

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 旧下ヨイチ運上家(きゅうしもよいちうんじょうや)は、北海道余市郡余市町入舟町にある建築物である。国指定の史跡重要文化財となっている。
 江戸時代、松前藩が設けたアイヌの人々との交易の場所の中心に、交易を請負った商人が建築、経営を行った建物が運上家である。
 和人が増えるにつれてアイヌを使役し、自らも大規模漁業を営み、その基地化の傾向は強まっていった。漁期には支配人、通辞、帳役、番人などを置き、休漁期には番人のみが越冬をした。
 明治二(1869)年、開拓使が発足し、場所請負制度は廃止された。運上家は買い上げられ、本陣、会所、旅籠、番屋などへと姿を変えた。
 旧下ヨイチ運上家は、道内で唯一残った建築を解体、嘉永六(1853)年に改築した当時の古図面を基に復元した、貴重な建物である。
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2007/5/21


大井宿 Ooi-juku 

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 江戸から数えて46番目にあたる美濃中山道の「大井宿」は、天保一四(1843)年の当時で、本陣、脇本陣が各々1軒、旅籠は41軒もあり、中山道で最も賑わった宿場といわれた。
 中山道の宿場の特徴でもある桝形は他の地より多く、横町、本町、竪町、茶屋町、橋場の5つの町を、それぞれ6ヶ所の桝形によって区切られていた。
 大井宿より京に向った旧中山道には、大井で没した西行の墓があり、そばには、ここの清水で墨を磨ったとされる西行硯水公園等がある。
 現在の中心部、恵那駅と平行に抜ける中山道を進むと、市神神社、本陣跡、長国寺へと続く。更にそこから道を上ると、郷土の歴史に残る根津甚平ゆかりの根津神社、甚平坂、馬塚犬塚がある。また、浮世絵師の歌川広重(安藤広重)は、この甚平坂から見下ろした景色を木曽街道六十九次の大井宿の絵に用いた。
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2007/5/7


安藤家本陣 Andoukehonjin 

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 安藤家本陣は、宮城県刈田郡七ヶ宿町にある本陣宿。羽州街道と奥州街道を結ぶ山中七ヶ宿街道の滑津(なめつ)宿にあり、江戸時代、秋田藩や庄内藩など十三大名の参勤交代の大名宿となった。
 滑津大滝へ降りる道のほど近くに建ち、旅籠や木賃宿が立ち並んだ山中七ヶ宿街道の中で唯一、当時の面影を残している建造物といわれている。
 安藤家は仙台藩の要害であった角田城の城主角田家の家臣で、文政一二(1829)年からは安藤太郎左衛門が肝煎検断(名主)を勤めた。祖先は西国に住み、関が原の戦いで破れたのち、この地に逃れたと言われる。
 独特の切妻破風造りの玄関と、重量感のある茅葺き屋根が立派な古い屋敷である。
 安藤家本陣は、七ヶ宿街道の様子を今に伝える、大変貴重な建築物である。
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2007/5/1


寺田屋 Teradaya 

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 京都伏見の旅籠(はたご)、寺田屋。
 伏見は京と大坂を結ぶ要所であり、西国の大名や武士たちは、船で大坂に着き、淀川を三十石船で伏見まで辿ったのち京や江戸へ向かうのが一般的なルートであった。ここ寺田屋は伏見の薩摩藩邸にも近く、薩摩藩の下級藩士の定宿の旅籠であったが、そんなことから、幕末維新の「寺田屋事件」や「坂本龍馬襲撃事件」の舞台となったのである。
 明治以降の戦禍もくぐりぬけ、いまも当時の建物の姿を残し、旅籠として宿泊もできる。
 表には「寺田屋」と書かれた提灯がさがり、坂本竜馬が気に入っていた部屋は「坂本龍馬の部屋」として公開され、龍馬が所有の鉄砲や刀、そして肖像画が展示されている。もちろん、襲撃事件の折に付いた「刀傷」や龍馬が撃った「弾痕の跡」なども柱に残っている。
 京都の時間感覚はスパンが長い。ここでは、明治維新もついこないだのようである。
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2007/4/9


木曾路馬籠宿 Kisoji-magome-juku 

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 木曾路馬籠宿(きそじまごめじゅく)は岐阜県中津川市馬籠に残る宿場町である。
 江戸時代の五街道、中山道の木曽路、木曾十一宿の最南に位置し、美濃路から木曾路へ入る際の最初の宿場にあたる。
 山の尾根に沿った街道であり、急な坂が多く、宿は石垣を積みその上に立てられている。街中には桝形(ますがた)と呼ばれる曲がり角が配置され、戦術上の用地としても築かれたことが伺われる。
 現在も旅籠や石畳が残され、往時の面影を偲ばせる。
 馬籠は、明治から昭和に掛けて活躍した文豪、島崎藤村の生地でもあり、また小説「夜明け前」の舞台でもある。
 宿内には作中に現れた場所やゆかりの家などが点在し、文豪に思いをはせる人も多い。
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