NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/7


夾纈 Kyoukechi 

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 夾纈(きょうけち)は、日本に伝わる、衣類の染色法のひとつである。
 布を半分に折り、この折り目から布端までの図模様を板二枚に彫り、生地裂を半分に折り、その二枚の板に挟んで締め付けて、板の背後からあけた幾つかの穴から染料を流し込んで染める。
 この染色技法のために板を外して拡げると、左右対称の図柄であり、染料の浸み込んだ場所も左右同じ場所となっている。
 布を広げてみないと、どんな風に染め上がったか、染めた本人にもわからないと言われている。
 その起源は、中国ともインドとも言われ、シルクロード、敦煌などの遺跡や日本の正倉院にも夾纈の貴重な裂が多く遺されている。
 柔らかで幻想的な美しさを持ち、日本では奈良時代を中心に行われた染色法だが、多彩な染色は難しく、廃れていった。
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2008/7/9


狩衣 Kariginu 

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 狩衣(かりぎぬ)とは、平安時代以降の公家の普段着である。
 その名の通り、元は野外狩猟用の服で、着用も簡便で運動性も高いものであった。便利なために一般公家の日常着として愛用され、次第に院参にも用いられるようになり、時代を経るに従って公服としての色彩を増していった。
 烏帽子を被り紅の単を着て、指貫袴をはき、狩衣を着るという活動的で、気楽な服として着た装束で、布衣(ほうい)ともいわれた。
 身幅が一幅で両脇を縫わず、前の袖付けも縫わず、背で20cmほど袖を縫ってあり、袖口に括紐をとおしてある。
 藤原期より、機能性に富み若年の日常着として貴族社会の中で広く利用されるようになった。
 ただし狩衣での参内は一切認められず、基本的に狩衣に冠を被る事はなかった。
 狩衣は、現代では神職の常装として着用される伝統装束である。
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2008/7/4


葛籠 Tuzura 

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 葛籠(つづら)とは、衣を入れる籠の事である。
 元々はツヅラフジのつるで編んだ蓋つきの籠の一種であったが、後に竹を使って網代に編んだ四角い衣装箱をさして呼ぶことが一般的になった。
 古くは正倉院にも所蔵されており、平安時代に入り竹を加工する技術が確立されると、四角く作られるようになった。江戸時代の頃より庶民に愛用され、明治~大正時代の頃によく使用された。
 通気性に富み、また、葛籠の表面に塗られる漆や柿渋に抗菌、防虫、防腐作用があるため、大切な着物を保管するのに最適といわれている。
 おとぎ話「舌切り雀」に、おみやげ物が入っている容器として大きな葛籠と小さな葛籠が登場する事でも知られている。
 葛籠は、通気性が良くて軽い、衣類を入れるための日本伝統の家具である。
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2007/9/7


首里の織物 Syuri-no-orimono The Shuri Textile

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 首里(しゅり)の織物は、約五百年に及んだ琉球王朝の首都であった現在の那覇市、首里を中心とした地域に伝わる織物である。
 中国や東南アジア諸国などの影響を受けながらも独自の発展を遂げ、歴史上、芸術上の価値も高く、地域的特色を色濃く残した沖縄を代表する織物である。
 染色には琉球藍を主体とした植物染料が用いられ、製織は地機および高機の投げ杼(なげひ)の手織りによって行われる。
 現在、首里花織、道屯織、花倉織、諸取切、手縞、煮綛芭蕉布、花織手巾の7種類の技法が伝えられている。
 高度な技術による優れた意匠の織物は、主に貴族や士族の衣服として愛用され、一つの地域に伝承される染織技法としては、多様性や洗練度において、他に類を見ない特徴を持つものでもある。
 琉球王朝時代においては、織手はほとんどが士族の妻やその娘達であり、彼女達の誇りある手仕事の一つであったという。
 今に伝えられ、織り上げられる逸品には、彼女達の誇りも一緒に織り込まれているに違いない。
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紬織 Tsumugi-ori Tsumugi Silk Textil

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 紬織(つむぎおり)は、真綿から紡ぎ出した糸を経緯に用い、手織りで織り上げられた織物である。
 屑繭などから真綿を作り、指先で糸にしたものを手紡ぎ糸あるいは紬糸といい、それらを用いることから紬織と呼ばれるようになった。
 手紡ぎ糸独特の微妙な凹凸から生まれる風合いや鈍い光沢が特徴で、また、非常に丈夫なことから、古くから日常衣料や野良着などの作業着として用いられていた。
 このため、例え絹であっても正装には用いられなかったが、江戸時代のいわゆる”粋”を愛した通人たちが、その色合いや絹なのに落ち着いた光沢を持つ風合いに渋さを見出し、さりげなく趣味の良さを主張できる粋な反物として、外出着やお洒落着に用い、人気を博した。
 非常に丈夫な分、織りたては生地が硬く、着心地が良くないため、裕福な商人は番頭などに着せて、やわらかくなったところで自分で着用したという逸話もある。
 織りたての硬いものを羽織って、落語よろしく粋がってみるのも良いかも知れない。
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2007/9/5


紅型 Bin-gata Bingata

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 紅型(びんがた)は、沖縄を代表する伝統的な染織技法の一つである。
 起源は十六世紀ごろとされており、当時の琉球王国では王族や貴族の衣装として染められていた。そのため、染屋は首里城の周りに置かれ篤く庇護されていたという。
 「紅」は色全般を示す言葉でとして、「型」は型絵染めの型紙を表す言葉として用いられ、型紙を使って様々な色で染め上げたもの全般を紅型と読んでいた。
 紅型には二つの手法があり、型染めは型を用いて文様を染めあげるもので、筒引きは文様を描くのに必要な糊を円柱状の筒にいれ、その先からところてんのように搾り出しながら文様を描く手法だ。
 これら細心の手作業により生み出される色合いは当時の王侯貴族たちを魅了して止まず、特にフクギと呼ばれる植物から取れる黄色は、王族のみ使用がゆるされるほどだった。
 現在では用途も広がり、着物のみならず帯や各種装飾品などにも活用されており、友禅に並ぶ日本の代表的な染物として、南国の情緒を楽しませてくれている。
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2007/8/10


宮平初子(人間国宝) Miyahira Hatsuko Miyahira Hatsuko (Living National Treasure)

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 首里の織物の第一人者である宮平初子の作品には、沖縄を愛し、平和を愛する彼女の気持ちも同時に織り込まれている。
 大正一一(1922)年首里に生まれる。幼少の頃より織物に深い愛着と造詣を抱き、沖縄県女子工芸学校に進学。やがて、日本民芸館の柳宗悦館長と出会い上京する。そこで、植物染料や紋織りの指導を受ける。二年後帰郷し母校の教壇に立つが、太平洋戦争で沖縄は廃墟と化してしまい、首里織物も絶滅の危機に陥ろうとしていた。宮平初子は首里織物の再建を願い首里織物の技術者の組織化に奔走した。昭和四七年、沖縄本土復帰後は那覇伝統織物事業協同組合を作るなど首里織物の技術復興と伝承に貢献、平成一〇(1998)年「重要無形文化財保持者」となる。
 首里の織物は、約500年の歴史を誇る伝統的な染織技法である。主に貴族の衣服として着用された。その織手は、士族の妻やその娘たちであったと言われている。
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2007/7/10


アイヌ文様 Ainumoyouo Ainu Pattern

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 アイヌの人々の生活の中で、衣服や調度用具、儀礼用具には独特の文様を見ることができる。これがアイヌ文様(もんよう)と呼ばれるもの。
 アイヌ文様は、アイヌ名でモレウ(渦を巻くもの)と呼ばれる渦巻き文様と、アイウシ(棘のあるもの)と呼ばれる括弧文様を基本に、多種多様な文様がある。文様は装飾としてだけでなく、身を守る魔よけとしての意味も持っており、衣服の袖口や襟、裾周りに施されていた。文様を見れば、どの地域のものか知ることもできた。そのルーツについては諸説あるが、いまだ解明されていない。
 かつて好きな異性に対して、女性はテクンペ(手甲)、ホシ(脚袢)などにアイヌ文様を刺繍して渡し、男性は女性に文様を彫ったメノコマキリ(女性用小刀)を渡した。アイヌの人々は自分達の作ったものには、魂が入っていると信じ大切に扱っている。
 現在は、自由にアレンジされた文様を施したスカートやブラウスも制作されている。
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