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二俣城(ふたまたじょう)は、静岡県天竜市街地の北側、標高約一〇〇メートルのところにあり、天龍川と二俣川に囲まれ切り立ったところに立っている。徳川軍と武田軍による攻防の舞台となった城として知られている。
文亀三(1503)年、二俣昌長(ふたまたまさなが)が築城したとされる。
天正七(1579)年九月一五日、徳川家康の嫡男である松平三郎信康が城中で自刃したという悲話が残されている。この際、介錯に使われた刀が千子村正(せんごむらまさ)であった。村正とは、室町時代の刀工で、伊勢国桑名の住人。「妖刀村正」と呼ばれ、数々の伝説を残した名匠で、信康の自刃のほか、徳川家康の祖父・清康が殺害され、さらに関が原の戦いで家康自身も手に傷を負ったのが全て村正という。
現在残っているものは、高さ約四、五メートルの天守台と、野面積み(のずらづみ)の石垣、本丸、二の丸、南・北曲輪、土塁などが残されている。
文亀三(1503)年、二俣昌長(ふたまたまさなが)が築城したとされる。
天正七(1579)年九月一五日、徳川家康の嫡男である松平三郎信康が城中で自刃したという悲話が残されている。この際、介錯に使われた刀が千子村正(せんごむらまさ)であった。村正とは、室町時代の刀工で、伊勢国桑名の住人。「妖刀村正」と呼ばれ、数々の伝説を残した名匠で、信康の自刃のほか、徳川家康の祖父・清康が殺害され、さらに関が原の戦いで家康自身も手に傷を負ったのが全て村正という。
現在残っているものは、高さ約四、五メートルの天守台と、野面積み(のずらづみ)の石垣、本丸、二の丸、南・北曲輪、土塁などが残されている。
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