NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/8/24


旧関川家別荘 Kyuu-sekikawa-ke-bessou 

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 旧関川家別荘(きゅうせきがわけべっそう)は、一七世紀の終わりから明治三〇年代まで、松前藩一の豪商として江差で回船問屋を営んでいた関川家の別荘を当時の姿に修復した建物。北海道豊川町に所在する。
 関川家初代・与左衛門は越後の人で天和年間(1681~1684)に松前に移り、その後江差に定住、酒屋を営んだ。二代目からは事業を拡大、回船問屋も営み、他に米問屋・海産・金融・薬・味噌醸造・紙漉から農地開拓まで幅広く手がけて、財を成したという。
 面積一万一〇〇〇〇平方メートルもある日本庭園からは、当時の繁栄振りがうかがえる。
当時の姿に復元された建物は一般公開され、江差の最盛期の頃の様子を伝える古文書や調度品などの貴重な品々が展示・保存されている。
 旧関川家別荘は、豊川町の有形文化財に指定されている。
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2007/6/22


旧日野宿本陣 Kyu-hinojuku-honjin Old Hinojuku Honjin

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 旧日野宿本陣(きゅうひのじゅくほんじん)は都内に唯一残る本陣建物である。
 嘉永二(1849)年、正月の大火で焼失してしまったため、現在の建物は、日野本郷名主・日野宿問屋役の佐藤彦五郎が十年の歳月を費やして文久三(1863)年に上棟し、翌元治元(1864)年一二月から本陣兼自宅として使用したものである。
 大火をきっかけに自衛を痛感した彦五郎は、総合武術である天然理心流に入門、その後免許皆伝し自宅に道場も開いた。
 のちの新選組局長・近藤勇や一番組隊長沖田総司らが京に向かう前に稽古場として利用していた道場である。のちの新撰組副長・土方歳三の写真や遺品を義兄である佐藤彦五郎に届けた市村鉄之助が二年あまりかくまわれていた部屋なども残されている。
 本陣であること以外に道場でも名をはせる、たくさんの歴史とその重みをもった場所である。
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2007/6/14


旧金森洋物店 Kyuu-kanemori-youbutsu-ten 

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 旧金森洋物店は、北海道函館市にある建造物。
 函館は、明治から昭和に渡り、度々大火に見舞われてきた。明治十一(1878)年、十二(1879)年の大火では殆どの市街区域を失った。そこで、開拓史が不燃質家屋の奨励に乗り出したということだ。
 この旧金森洋物店もそのひとつで、明治十三(1880)年に初代渡辺熊四郎が開拓史の茂辺地煉瓦石製造所の煉瓦を使用した不燃質店舗として開店させた。当時の金森洋物店は、舶来製の小間物、雑貨などを販売。明治四〇(1907)年の大火でも、周辺の不燃質家屋が焼失する中、金森洋品店のみが難を逃れたということだ。
 開口部は正面と裏側の出入り口、2階部分の窓だけで、側面には開口部がなく、耐火を意識した造りとなっている。
 大正十四(1925)年まで店舗として使用された後、昭和四四年から「市立函館博物館郷土資料館」としてオープン。「明治の函館のハイカラ商い風景」をテーマに、古いオルゴールなどを公開・展示している。
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2007/5/25


旧商家丸一本間家 Kyuu-shoka-maruichihonmake 

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 「旧商家丸一本間家(きゅうしょうかまるいちほんまけ)」は、北海道増毛郡増毛町にある歴史的建造物である。
 旧商家丸一本間家は明治時代から、呉服をはじめ鰊(にしん)漁網元、海運業、酒造業など、天塩国随一の豪商として名を馳せた「本間家」の旧宅である。明治十四年から建築を始め、明治三五年に落成した町屋造りを基本とした建物群で、増毛町有形文化財、北海道遺産、国の重要文化財に指定されている。
 通りに面して木骨石造りの呉服店舗と呉服蔵があり、その間の玄関を入ると、石を敷き詰めた庭の奥にコの字型に木造平屋建ての居宅と、木造一部三階建ての付属家がある。明かり取りの仕掛けがある奥帳場や、有名書家の襖がある奥の間、シャンデリアのある客間など、贅を尽くした建物からは往時の繁盛ぶりが偲ばれる。
 旧商家丸一本間家は、増毛町を代表するシンボル的な建築物である。
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北海道 旧中村家住宅 Hokkaido Kyuu-nakamurake-juutaku 

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「旧中村家住宅(きゅうなかむらけじゅうたく)」は、江戸時代、北海道で海産物の仲買をしていた商人・大橋宇兵衛が建てたものである。檜山郡江差町に所在し、約100年の歴史を持つ。
 越前石を積み上げた土台、総ヒノキ切妻造りの母屋など、問屋建築の代表的な造りである。ヒノキの組み立て式のため、釘は一切使わない建築方式を取っている。
 帳場のある母屋から海に向かい、文庫倉、下ノ倉、ハネダシと呼ばれる船着場の3棟が続く、「通り庭方式」と呼ばれる江戸期の問屋独特の造りだ。
 現在は一般公開されており、屋内も見学可能。館内では北前船の文献や、ニシン漁に使われた道具なども展示されている。
 江戸時代の問屋建築を今に残す貴重な史跡として、国指定の重要文化財に指定されている。
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2007/5/24


国森家住宅 Kunimori-ke-jutaku 

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 国森家住宅(くにもりけじゅうたく)は、山口県柳井市に存在する油商の家である。
 柳井が近世商業都市として繁栄した18世紀後半に建てられたもので、江戸中期の商家の構えの典型として国の重要文化財に指定されている。
 間口8・5m、奥行16・5m、妻入り、本瓦葺の屋根に、入母屋土蔵造りの2階建てで、1階正面には必要に応じて全開できる「蔀帳(ぶちょう)」と呼ばれる、収納と機能性を兼ね備えた板戸が用いられている。さらにその前には一本引きの土戸があり、火災のときにはこの土戸をはめて戸と戸の間に味噌を塗り密閉、類焼防止が出来るなど、生活の中での知恵を生かした見事な建築を見ることが出来る。
 日本の建築文化の粋や意匠に触れることの出来る、貴重な文化財である。
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2007/4/26


縁起物 熊手 Engimono Kumade 

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 熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模し作られたとされる。「福徳をかき集める、鷲づかむ」という意味が込められている、縁起物の代表である。
 「酉の市」の日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並び、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与される。福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ、「かっこめ」とも呼ばれている。
 熊手は熊手商と「買った(勝った)」、「まけた(負けた)」と気っ風の良いやり取りを楽しんで買うものとされ、商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる。また年々大きくしてゆくものとされており、大小様々なものが売られている。
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2007/4/12


広島 太田家住宅 Hiroshima Oota-ke-jyutaku Remains of Ota Residence

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 鞆の名産品・保命酒の製造を行っていた中村家の旧宅で、後に太田家の所有となった。
 江戸時代18世紀後半から19世紀前期までの建物で構成され、敷地の東南隅に東向きに主屋が建ち、通り沿いに敷地を囲うように附属屋が建つ。
 敷地を囲むように土蔵が建ち並ぶ姿は壮観で,江戸時代中期から後期(17世紀後半〜19世紀前半)にかけて酒造業で栄えた商家の構えをよく残しており、鞆の歴史的町並みを成す町屋として貴重な民家である。
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