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2008/11/14


南下古墳群 nanka-kohun-gun 

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 南下(みなみしも)古墳群は、群馬県の赤城山と榛名山の南の麓、利根川の西に位置する古墳群である。
 かつては四〇基を超える大規模な古墳群であったが、現在は九基が現存するのみとなっており、そのうちの五基の古墳に「A号」から「E号」まで名付けられている。
 五基の古墳のいずれも築造時期は古墳時代後期と考えられ、それぞれ石室の形状や使用している石に違いがある。
 その中で「A号」と「E号」の造りには共通点も多く、ともに榛名山の噴火時に噴き出した軽石を用いており、玄室壁面に石材加工の際の作業線とみられる赤い線を残している。これは古墳時代の設計技術をあらわした全国的にもほとんど例のない希少なものである。
 また古墳群のすぐ東には上野国三宮(こうずけのくにさんのみや)神社という古くから続く神社があり、近くには古墳時代から古代にかけての集落遺跡も多いことから、それぞれが密接な関係にあったのではと推測されている。
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2008/9/29


瞰望岩 Ganbou-iwa 

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 瞰望岩(がんぼういわ)は、別名インガルシとも呼ばれ、アイヌ語で「見晴らしの良い所」を意味する。北海道遠軽町のシンボル的な存在となっている。町名である遠軽(えんがる)の由来もこの言葉からきているとされる。
 瞰望岩周辺の丘陵には広大な公園があり、春には山桜や芝桜が辺りをピンク色に染め、夏はヒマワリが咲き誇る。
 ひとたび高さ約80mの岩の頂上に登ると、360度見渡す限りの大パノラマが広がり素晴しい眺望がのぞむことができる。町のあらゆる所からその姿を望む事が出来る瞰望岩は、その昔アイヌの人々が集落同士で戦った古戦場としての悲しい伝説が残る場所でもある。
 北海道自然百選に指定されていて、頂上には開拓記念碑が建てられている。
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2008/9/4


野口鹿踊 Noguchi-no-shishi-odori 

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 野口鹿踊(のぐちのししおどり)は、宮城県仙台市太白区に伝わる、五穀豊穣、悪魔退散、家内安全を祈願する踊りだ。宮城県の民俗文化財に指定されている。
 もともとは盆の季節に先祖供養の踊りで、五色御幣(ごしきごへい)を配りながら集落の各戸を練り歩いていたという。
 他の地域の鹿踊りが白く長い角を付けた鹿に扮しているのに比べ、この野口鹿踊りは異形の鹿頭に五色御幣を背負い、太鼓を身につけて踊る。この鹿役の周りを道化面を付けた「ささらすり」が踊り、子供たちが鐘をならす。陰陽五行の古い信仰に基づいた姿形が、踊庭や装束などに残っている。
 
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2008/8/15


安祥城址 Anshou-jo-shi 

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 安祥城(あんしょうじょう)は、永亨一二(1440)年、畠山一族の和田親平が築城したといわれている。
 この地域は三方向が沼という自然の要塞で守られており、城のまわりに二重の濠がめぐり、高い土塁と見張り櫓から低地を監視できる、外部からの攻めに強い城だった。
 しかし徳川家康の祖先である松平氏が、城の近くの集落で賑やかな盆踊りを開催して武士の注意を引き付け、その間に攻め取るという寄策を投じ落城する。
 のちに松平氏は本拠を移し、一族の安祥長家を安祥城代とするが、天文九(1540)年、尾張の織田信秀が落城させ、支配下に置く。
 永禄五(1562)年に清洲同盟(きよすどうめい)が成立すると、安祥城は廃城となった。
 現在は大乗寺に本丸跡、八幡社に二の丸跡、周囲に堀や土塁が残っており、本の丸を中心に円心状に曲輪を配置した城跡を残している。また、七つ井と呼ばれる井戸が点在し、安祥城主が茶の湯に使ったとされる筒井が残っている。
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2008/7/30


花取り踊り(愛媛県野村町) Hanatori-odori (Ehime-ken Nomura-cho) 

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 愛媛県西予市野村町の「花取り踊り」は、その名とはうらはらに、太刀を使った勇壮な踊りである。
 元和年間(1615~1624)の八月五日、町内の岡成部落で落雷による大火事があり、集落のほとんどが焼失。その後、神仏に踊りを献上して防災を祈願したのが始まりと伝えられている。今日では、旧暦の八月五日に近い九月の第一土曜日に行われている。
 もともと土佐の太刀踊りが隣の三間町の行商人を通じて伝わったという説や、さらには平清盛家臣、足利又太郎忠綱の歯長(はなが)取り踊りが転じたという説がある。
 野村町の花取り踊りは十二番まであり、横並びに二列の隊を組み、白い衣装の背の高い大太刀と赤い衣装の背の低い小太刀が、音頭に合わせて軽快かつ勇ましく踊る。本来は十二組だが、現在は八組で踊られる。
 花取り踊りの前座と締にある「三角踊り」は、鉦太鼓の鳴り物の音とリズムに合わせて三人の踊り子が三角形を作り、どんどん加速するテンポに乗って豪快に踊る。
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2008/3/7


長福寺 三重塔 Choufuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 ひなびた集落の中に朱色の優美な姿が際立つ。真木山を背景に建つその塔は、遠くからでも三層からなっていることがよく分かる。国の重要文化財に指定されている、長福寺(ちょうふくじ)三重塔だ。
 長福寺は、奈良時代の天平宝治元(757)年、孝謙天皇の勅願により鑑真和上が開基したと伝えられる。弘安八(1285)年に天台宗の円源上人が中興し、明徳年間(1350年頃)に真言宗の寺院となった。元来は真木山の山頂に建ち、全盛期の鎌倉時代には六十五坊、江戸時代初期にも四十坊を数える巨刹だったが、度重なる火災で衰え、昭和三(1928)年に三重塔を残して現在地に移され、塔も昭和二六(1951)年に解体修理をして現在地に移された。
 三重塔は鎌倉時代中期の弘安八(1285)年の建立で、岡山県下最古の木造建築。高さ約22mの均整がとれた塔は、鎌倉建築の特色を示している。
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2008/2/1


広河原松上げ Hirogawara-matsuage Hirogawara Matsuage Torch Lighting Ritual

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 広河原松上げ(ひろがわらまつあげ)は、盆の精霊祭り、火災予防、五穀豊穣を祈願して、京都市左京区広河原で行われる火祭りである。
 元々は愛宕山を信仰する山伏が行う聖火奉納を、若狭街道沿道の集落にも伝え広めたのが始まりとされる。
 上桂川の河原に立てられた約一二〇〇本の松明に順次点火され、暗闇に火の海が浮かび上がる様は圧巻である。さらに鉦(かね)や太鼓の合図と共に、高さ二〇mほどの灯籠木(とろぎ)と呼ばれる太い檜柱の頂上部に取り付けられた「大笠」めがけて、火のついた手松明を男衆がいっせいに投げ込み始める。「松上げ」というのは松明を上げることに由来している。投げ上げる際に、くるくると回して反動をつけるため、何十もの火の軌道が浮かび上がる様がとても美しい。
 手松明が一つ二つと入り、大笠が炎に包まれた灯籠木は引き倒される。火の粉が夜空に舞うと、祭りは最高潮を迎える。
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2007/12/25


笠島集落 Kasajima-shuuraku 

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 笠島集落(かさじましゅうらく)は、国選定の伝統的建造物群保存地区で、約一〇〇戸の江戸末期から明治期にかけての建物が残る集落である。
 笠島は戦国時代まで、水上の兵力、塩飽水軍(しわくすいぐん)の本拠、江戸時代には要所として栄えた。その後貨物船の世話をする廻船問屋として栄えた笠島だったが、後に船舶建造の腕を活かし、家屋建築の塩飽大工として島民達が全国で活躍するようになったという。
 大工が各地から帰省する度に家屋を手入れしていたため、江戸時代の町並みがとても良い状態で保存されているという。
 街並みは迷路のようになっており、富を誇示するように粋を凝らして建てた屋敷が建ち並ぶ。千本格子の出窓や、漆喰塗りの白壁の家々、なまこ壁の土蔵などが連なり、美しさと共に塩飽大工の技術力の高さも随所で感じられるという。
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