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寒河江城は、山形県寒河江市丸内にあった城である。
寒河江城は、鎌倉時代に大江広元の嫡男親広が、寒河江に居館を構えたのが始まりとされる。大江時氏は寒河江城を修築して、三重の堀を持つ大きな城とした。
天正十二(1584)年、最上義光との戦いに敗れ、大江氏は滅亡した。
その後寒河江肥前の城となったが、義光の死去に際して肥前は殉死し、寒河江城は空城となった。
1622年、最上氏が改易となり、鳥居忠政が山形藩主となると残されていた寒河江城も破壊され、廃城となった。
現在の寒河江小学校敷地が本丸跡と言われている。宅地化によって遺構はなくなってしまい、西側をのぞく三方に堀の名残が残されている程度である。
寒河江城は、地元の豪族・大江氏の、往時を偲ばせる城である。
寒河江城は、鎌倉時代に大江広元の嫡男親広が、寒河江に居館を構えたのが始まりとされる。大江時氏は寒河江城を修築して、三重の堀を持つ大きな城とした。
天正十二(1584)年、最上義光との戦いに敗れ、大江氏は滅亡した。
その後寒河江肥前の城となったが、義光の死去に際して肥前は殉死し、寒河江城は空城となった。
1622年、最上氏が改易となり、鳥居忠政が山形藩主となると残されていた寒河江城も破壊され、廃城となった。
現在の寒河江小学校敷地が本丸跡と言われている。宅地化によって遺構はなくなってしまい、西側をのぞく三方に堀の名残が残されている程度である。
寒河江城は、地元の豪族・大江氏の、往時を偲ばせる城である。
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