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城下町・臼杵市のシンボルである「丸毛家(まるもうけ)下屋敷」。江戸後期の建築様式をそのままとどめた上級武家屋敷である。
丸毛家は、もともと美濃国(現岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣であったが、天正十(1582)年の山崎の合戦で光秀が豊臣秀吉に敗れてからは長い間流浪していたという。再び丸毛家が返り咲いたのは江戸時代の寛永五(1628)年。初代臼杵藩主、稲葉貞通が丸毛氏の遠縁にあたることから、臼杵藩の召し抱えとなる。その後明治維新まで、丸毛家は臼杵藩の上級武士として君臨したという。
丸毛家下屋敷の最大の特徴は、来客用の「表」と、家族の生活の場である「奥」に分けられ、壁によって完全に区切られていることである。部屋だけでなく、玄関も来客用の「表玄関」と家人用の「内玄関」に分けられており、体面を重んじる武家の格式が偲ばれる造りとなっている。
丸毛家は、もともと美濃国(現岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣であったが、天正十(1582)年の山崎の合戦で光秀が豊臣秀吉に敗れてからは長い間流浪していたという。再び丸毛家が返り咲いたのは江戸時代の寛永五(1628)年。初代臼杵藩主、稲葉貞通が丸毛氏の遠縁にあたることから、臼杵藩の召し抱えとなる。その後明治維新まで、丸毛家は臼杵藩の上級武士として君臨したという。
丸毛家下屋敷の最大の特徴は、来客用の「表」と、家族の生活の場である「奥」に分けられ、壁によって完全に区切られていることである。部屋だけでなく、玄関も来客用の「表玄関」と家人用の「内玄関」に分けられており、体面を重んじる武家の格式が偲ばれる造りとなっている。
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