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2008/5/12


徳利 Tokkuri 

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 徳利(とっくり)とは、酒など液状のものを入れる陶製・金属製のもので、口の細い容器である。酒のほか醤油・酢・油などを運搬する際に使われたり、保存容器としての役割を果たしていた。
 名称は、注ぐときに「トクトクトク」「トックリトックリ」と聞こえる事が、由来といわれる中でも有名な説である。
 かつては、酒屋から酒を買ってくる時に、一升(いっしょう)以上入る大きな「通い徳利」というものを借りて使用していた。
 貸し出し主である酒屋の屋号・地名・商標などが筆太で書かれている徳利を渡し、中身がなくなったら店に入れに来るという販売方法である。
 しかし、第二次大戦中に酒の計り売りが禁止された為、主に日本酒を温めて飲む「燗徳利(かんとっくり)」として用いるようになった。
 各地の陶器によって色や形・特徴なども異なり、重みのある形やシンプルなもの、色鮮やかなものまで様々な徳利が酒を引き立てる。
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2008/2/7


上毛かるた Joumou-karuta 

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 上毛かるた(じょうもうかるた)は昭和二二年に群馬県の群馬文化協会が発行したかるたである。上毛とは群馬県の古い呼称である。
 太平洋戦争に負けた日本の多くの都市は廃墟と化し、巷には被災者や失業者が溢れ、多くの戦災孤児が生まれた。
 当時群馬文化協会の前身であった同胞援護会は上毛かるたを発行した。発行の目的はかるたという遊びを通じて、教育もままならない子どもたちに群馬県の歴史を中心に日本の歴史、地理、道徳を教科書の代わりに教えていき、郷土愛や慈愛に芽生えてもらうためであった。
 かるたに詠まれている人物や歴史、名所に関しては広く県民に選んでもらい、上毛かるた編集委員会で選出した。解説には丸山清康氏があたり、絵は小見辰男氏が担当した。発行から二ケ月後には上毛かるた県大会が開催された。
 昭和二七年に上毛かるたは児童福祉法に基づいた優良文化財として推薦 されている。
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2008/1/17


小杉焼 Kosugi-yaki 

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 小杉焼(こすぎやき)は富山県射水市で焼かれる陶器。以前は射水郡小杉町という地名だったことから、それにちなんで名付けられた。
 江戸時代後期に地元の陶工、高畑与左衛門が開窯した。与左衛門は相馬をはじめ、瀬戸、美濃、京都など各地の窯元を訪ねては研鑽を積み、帰郷して陶窯を開くと、酒器、茶器、花器、祭器などあらゆる生活雑器を焼いた。
 中でも、銅や鉄の釉薬(ゆうやく)を用いて滑らかな艶を持つ、瓢徳利(ひさごとっくり)や鴨徳利が特に知られている。また、青磁(せいじ)も多く焼かれ、その質の良さから「小杉青磁」と呼ばれ、高く評価された。
 しかし、明治時代後期に衰退して廃窯。昭和時代に二回、再興が試みられるも、第二次世界大戦の勃発で復活には至らなかった。その後、昭和四五(1970)年に池上栄一氏が再興に成功。「小杉焼栄一窯」と命名し、伝統の中にも現代風のデザインを採り入れた作品を焼き続けている。「これまでの小杉焼にない新しい色を出したい」と、氏は情熱を燃やす。
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2007/12/14


川上踊 Kawakami-odori 

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 いちき串木野市は、鹿児島県の薩摩半島にある、吹上浜の北端に位置する。薩摩藩の「三国名勝図会」に記されている優美な霊峰・冠岳があり、また地元でつけあげと呼ばれる「さつまあげ」は串木野地区が発祥の地として知られている。
 そして川上地区には、古くから「川上踊(かわかみおどり)」が伝承されている。五穀豊穣と平和を願うために始められた踊りであり、四百年ほどの歴史をもつ。
 毎年八月二六日におこなれていたが、第二次世界大戦により中断を余儀なくされた。その後、昭和三九(1694)年に復活し、現在は川上踊保存会によって伝承され、八月下旬の日曜に披露されている。
 踊り子は、鐘と太鼓を打ち鳴らしながら終日踊り歩き、勇壮華麗な姿をみせる。
 踊りは全部で二三曲披露され、約五ヶ所の神社などに奉納する。
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2007/12/11


即清寺 Sokusei-ji 

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 青梅市にある即清寺(そくせいじ)は真言宗の古刹で、本尊は不空羂索大忿怒明王(ふくうけんさくだいふんぬみょうおう)である。
 創設は元慶八(884)年で、僧・元喩(げんゆ)が開創したと言われ、建久年間(1190~1199)源頼朝の命により畠山重忠が伽藍を造営した。即清寺の名は、重忠の戒名「勇賛即清居士(ゆうさんそくせいこじ)」から名づけられている。
 その後は北条氏照に信仰され、慶安元(1648)年には徳川氏から明王堂領三石の朱印状が寄せられた。
 寛永七(1630)年に鋳造された銅鐘は、太平洋戦争中に供出され、現在のものは戦後造られた。また本堂の前には、文明五(1473)年に造立された十三仏結衆板碑がある。
 即清寺は吉野街道の山裾にあり、この寺を含め周辺一帯は東西四キロメートルにわたり吉野梅郷と呼ばれる梅の名所として知られ、境内には招春梅と呼ばれる梅の銘木がある。その他、庭にはモクレンの大木があり、四月初めに多くの花を咲かせる。
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2007/12/7


川尻筆 Kawajiri-fude 

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 天保九(1838)年、広島県川尻の菊谷三蔵(きくたにさんぞう)が、現在の兵庫県にあたる摂州の有馬から筆を仕入れ、寺子屋などで販売したのが「川尻筆(かわじりふで)」の始まりである。
 その後、筆を仕入れるだけでなく、この地で筆の製造を始めることを村人に呼びかけ、安政六(1859)年に初めて川尻筆がつくられた。川尻の上野八重吉(うえのやえきち)が有馬や松江から職人を呼び、初めての試みとして高品質の「ねりまぜ製法」、大量生産の「ぼんまぜ製法」を扱い、川尻筆の名は次第に全国に広まった。
 明治時代における学制の制定から筆の需要が高まり、さらに川尻筆墨株式会社の設立もあって、技術や経営でも発展し続けた。
 第二次大戦中に多くの職人を失ったうえ、戦後の学制の変更で学校習字が廃止され、生産が衰退したが、昭和四二(1967)年に「川尻毛筆事業共同組合」が設立、続いて昭和四六(1971)年には学校習字が復活した。平成三(1991)年に県の伝統的工芸品の指定を受け、川尻筆の伝統は今なお大事に受け継がれている。
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2007/11/1


栃木 平和観音 Tochigi Heiwakannon Tochigi Heiwa Kannon

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 栃木の平和観音は、栃木県宇都宮市大谷町にある、大きな石仏である。
 昭和二九(1954)年、第2次世界大戦における日米両軍の戦没者の冥福を祈り完成、昭和三一年に開眼した、大谷石の採石場の跡に作られた観音仏である。
 石工の上野浪造が基礎を作り、彫刻家の飛田朝次郎が手彫りで穏やかな表情に仕上げた。
 平和観音は、高さ26.93m、胴回り20mもの大きさで、胸の高さには宇都宮市内を一望できる展望台がある。
 平和観音像の左手の側にある崖にはトンネルがあり、大谷寺側と行き来出来たが、崩落の恐れがあるため近年取り崩された。
 近隣には、大谷観音で有名な大谷寺もある。
 平和観音は、石の町大谷を象徴する巨大観音像である。
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2007/10/31


玉陵(世界遺産) Tama-udun Tamaudun (World Heritage Site)

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 玉陵(たまうどぅん)は、沖縄県那覇市金城町にある、琉球王朝の陵墓である。世界遺産に登録されており、全体が国の史跡である。
 1501年、琉球王尚真によって玉陵は築かれた。
 琉球では、墓を立派なものにして、祖先崇拝信仰の表現形態とする志向が強い。
 また、玉陵の設立は、祖先崇拝信仰を国内統治の安定・強化に利用しようとした意図があったものと考えられている。
 玉陵は中室、東室、西室の3つに分かれている。中室は葬儀後、遺骸が骨になるまで放置し、骨を取り出して洗骨した。その後、王と妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
 玉陵は太平洋戦争で大きな被害を被り、現在見られる大部分は大戦後に復元されたものである。
 玉陵は、琉球の神聖なる場所であり、厳かな墓所である。
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